「壷阪寺」の奥の院 五百羅漢岩

奈良県


壷阪寺がある高取町は、古代より飛鳥から吉野や紀伊に通じる道の途上にあたる重要な位置であり、古くから周辺の人口集中を支える地域として発展していた場所でした。

「妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ、頃は六月中の頃、夏とは言えど片田舎、木立の森もいと涼し…」というお里沢市の物語「壷坂霊元記」を子どもの頃ラジオで聞いたことがありました。

壺阪寺は、西国三十三カ所(西国観音霊場)六番札所で、御詠歌でも出てきます。

背丈20m,重量1200tを誇る世界最大級の観音立像。

石像の岩石はデカン高原カルカラ産で約3億年前のものといわれています。

日本とインドの石工たち延べ8万人が4年7ヶ月の歳月をかけて彫り上げたもので、インド政府と壷阪寺の友情の深さを示すシンボルでもあります。

草創については不明な点が多いが、伝承によれば大宝3年(703年)に元興寺の弁基上人により開かれたとされる。

後に元正天皇の祈願寺となった。

平安時代、京都の清水寺が北法華寺と呼ばれるのに対し当寺は南法華寺と呼ばれ、長谷寺とともに古くから観音霊場として栄えた。

承和14年(847年)には長谷寺とともに定額寺に列せられている。

貴族達の参拝も盛んであり、清少納言の『枕草子』には「寺は壺坂、笠置、法輪・・・」と霊験の寺の筆頭に挙げられている。

また、寛弘4年(1007年)左大臣藤原道長が吉野参詣の途次に当寺に宿泊している。

駐車場から奥へ進むと、現代的なお地蔵さまがずらりと奉納されたエリアが。

五百羅漢はそのさらに先にあります

「壷阪寺」の奥の院となる五百羅漢岩は、16世紀に高取城を本格整備した本多正俊が石工に命じて作らせたと伝わります。

ほとんどお顔が見えない石仏が多く、ひっそり静かな祈りの聖地。

この五百羅漢岩がいつ頃のものかは確かな記録は遺されていないようです。

16世紀末ごろ、豊臣家の重臣・本田利久が高取城を築城した際に、石工たちに命じて掘らせたという説が有力とされているとか。

おそらくは高取城の護りに仏の力を借りる意味があったのでしょう。

その甲斐もあって、高取城は明治維新を過ぎたころまでここにそびえ続けました(1873年に廃城)。

その一方、これを命じた本田氏は嗣子に恵まれず、17世紀中頃には廃絶してしまったとか。戦国の世は厳しいですね。

この五百羅漢岩は、高さ5m×幅3mくらいの岩に掘られていて、とても大きく感じます。

長い間、ずっと風雨にさらされてきて、その時の流れまで感じさせるようです。 

また、その周辺の岩に三尊像・五社大神・来迎如来・施無畏像・護法大黒など、たくさんの磨崖仏が刻まれています。

こうした仏さまは、山中の20ヶ所くらいにも及ぶというのですから、全部で何体あるのか想像もつきません。

五百羅漢周遊道が高取城まで続く。

「五百羅漢」に向かう参道には、目標までの距離を示す「町石」(高さ160センチ、花崗岩製)があり、そこに「香高山二町辰甲五月日」と刻まれています。

この「辰甲」は、石造様式から慶長9年(1604)と考えられています。

また、羅漢岩の前の石灯籠(高さ168、花崗岩製)には、「蓮華院殿慶長12年」と記されており、慶長12年(1607)の製作とわかります。

このため、石仏群も慶長年間の製作が始まったと推定されています。

400年の風雨にさらされた尊顔は、あるものは欠け、あるのもは削られ、目鼻が定かでなくなってもなお、対面する者を慰撫する力を持っています。

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