春風に吹かれてワンドへ

大阪府


今月はコロナ過で撮影会は中止、各自でテーマに沿って作品を用意することに。

出されたテーマが「淀川で撮る」・・・何とも大きな漠然としたテーマ。

とりあえずワンドへ。

菅原城北大橋

大阪市北東部の豊里大橋と長柄橋の2橋が慢性的な渋滞を起こすため、その中間に都市計画道路豊里矢田線整備事業の一環として架橋された。

旭区側は城北公園内を跨いでいるため、城北公園通(大阪市道中津太子橋線)には接続しておらず城北筋と接続している。

普通車の通行料金が100円だったので地元では100円橋とも呼ばれる。

以前は、両岸堤防上の歩行者自転車道と連絡していなかったが、赤川仮橋の廃止に伴う代替措置として連絡スロープが2013年(平成25年)7月に取り付けられた。

ありがとう赤川鉄橋
昭和4年から85年間、地域住民から長らく愛されてきた「赤川仮橋」が10月31日2 … 続きを読む →


ワンド(湾処、わんど)は、川の本流と繋がっているが、河川構造物などに囲まれて池のようになっている地形のことである。

魚類などの水生生物に安定した棲み処を与えるとともに、様々な植生が繁殖する場ともなっている。

近年では、河川にビオトープを形成する手段として、人工的に作られるケースが増えている。

ワンドの語源は諸説あるが、日本の漢字では一般的に「湾処」が当てられている。

入り江や川の淀み、淵などを「わんど」と呼ぶ地方があり、アイヌ語起源の倭語であるとする説。

アイヌ語解釈では次のような意味になる。◆ワンド=wa-un-to=岸・にある・沼。

明治時代に全国各地で行われた大型治水工事には、オランダ人のヨハネス・デレーケが指導したものがあり、オランダ語の「ワンドラ」という言葉がなまってワンドとなった説。

同氏が計画書に VANG-DAMM(両腕(堤)を伸ばして水深を一定にし水を補足する)と書き、ワンダムと発音したのが語源という説。

淀川改修

近代的な淀川の改修は、オランダ人技師のデ・レーケを中心に行われた修築工事(1874~1888)と、日本人技師の沖野忠雄を中心に行われた改良工事(1896~1910)の大きく2つに分けられます。

前者は低水工事で主に伏見~大阪間の蒸気船航路確保のために行われ、粗朶沈床工(そだちんしょうこう:木の小枝や下草を使って格子状に組んだマットを幾重にも重ねて大きな石で両岸の川底に沈める工法で、ケレップ水制とも言われる)という水制を用いることで、明治初期に平均水深40cmと言われた淀川の流れを真ん中に集めて水深を150cmに保ち、川の流れを穏やかに曲げました。

この水制によって多数のワンド群が形成されています。

また、デ・レーケは淀川水系の砂防工事にも力を注ぎました。後者は、明治18年(1885)の淀川大洪水で甚大な被害を被ったことを契機として沿岸住民より淀川改修運動が起こり、洪水による河川災害を防ぐ必要性から行われた高水工事です。

瀬田川から河口までの区間で、新淀川と長柄運河の開削、毛馬第一閘門・洗堰の建設から瀬田川の浚渫と洗堰建設に至るまで、現在の淀川を形作る工事でした。

ヨハネス・デ・レーケ  (1842~1913)

明治6年(1873)に日本政府招請のお雇い工師(土木四等工師)として来日し、大阪に居住しながら淀川修築工事に従事しました。

淀川だけでなく、大阪築港計画の立案、木曽川改修など、明治36年(1903)にオランダに帰国するまでの約30年間の功績が認められ、日本の近代河川・港湾の恩人と言われています。

沖野忠雄(1854~1921)

豊岡に生まれ、東 京 で大 学 南 校に通った 沖野は、明 治9 年(1876)に文部省留学生としてパリ中央諸芸学校土木建築科に留学し、フランスの土木工学を学びました。

明治14年(1881)に帰国した後、内務省に入省し、日本各地の土木監督署で諸河川の工事に携わりました。

明治22年(1889)に大阪を管轄する第四区(後の改正で第五区)土木監督署勤務となり、土木監督署長となった沖野は、明治27年(1894)に内務大臣・井上馨に「淀川高水防禦工事計画意見書」を提出し、明治29年(1896)から行われた淀川改良工事の計画を立案、工事監督を務めました。

翌明治30年(1897)からは淀川改修と不可分の関係にあった大阪築港工事の工事長を併せて務め、明治44年(1911)に内務技監として東京に戻るまで長きにわたり大阪にて職を全うし、後に日本の治水・港湾の祖と崇められる程の功績を残しました。

ワンドと淀川の間の堤防

ブロック堤防上は歩けるようになっている。

ブロックが露出していない場所もある。

淀川修築工事で用いられた水制は、岸から川に向かって垂直に幾つも設置されました。

川が自然に運ぶ土砂はこれらの水制にひっかかることで次第に溜まり、土砂の上に木や草が生え始め、時を経て現在数多く見られるワンドの形になりました。

ワンドは水の流れがほとんどなく、魚の棲みやすい環境が作られています。

ブラックバス

釣れた瞬間を見ることはできなかったけれど魚影はご覧の通り。

イタセンパラ発見の地

別名ビワタナゴと呼ばれる日本固有種の淡水魚で、板のように平たく、色鮮やかな腹部を持つことからイタセンパラ(板鮮腹)と呼ばれています。

淀川水系の他、富山平野と濃尾平野にのみ分布し、淀川水系では琵琶湖や巨椋池に生息していましたが絶滅しました。

淀川ではワンド周辺以外では見ることができず、現在はなかなか発見すること が で き ま せ ん 。

昭 和 4 6 年(1971)に淀川では絶滅したと思われていたイタセンパラを市岡高校の生物部がワンドで発見し、3年後に天然記念物指定されました

釣り座が点在、釣り人の通った跡が道になったらしい。

今の時期の淀川は別天地、広々した風景のなかで川風に吹かれているだけで心地よい。

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