大阪球場跡地に建つ「なんばパークス」の「南海ホークスメモリアルギャラリー」に、昨年2月11日に84歳で急逝した野村克也さんの愛用品が新たに展示され、14日に記念式典が開かれた。
同チームで活躍した野村克也さんの資料がなかったことから、現役時代一緒にプレーしていた江本孟紀さんが発起人となり、昨年11月からクラウドファンディングでリニューアルの資金を募っていた。
リニューアルでは既存の展示パネルに野村さんを加えるほか、野村さんゆかりの品を展示する予定だったが、支援金が目標額を上回ったことで、外観も併せてリニューアル。
「野村克也 青春のホームベース」「栄光の南海ホークス」「大阪球場ヒストリー」など5つの映像作品も館内放送用として追加されている。
1977年に南海監督を解任された経緯から、2017年12月に亡くなった沙知代夫人が野村さん関連の展示を断っていたが、44年ぶりに「南海・野村」が大阪球場に帰ってきた。
南海ホークス
若い人は「南海ホークス「」と聞いてもピンと来ないかもしれない。 今の「福岡ソフト … 続きを読む →
バットやユニフォームなどの展示がないだけではない。
年表にさえも「野村克也」の文字は一切ない。
先日亡くなられた時も献花台すら用意されなかった。
いろいろと確執があったようだがそれにしても寂しすぎる。
ノムさんが帰ってくる日
9階はなんばパークスの最上階。 パークスガーデンという、緑豊かな空中庭園となって … 続きを読む →
03年の「メモリアルギャラリー」完成後、テレビ番組の収録で訪れた本人は「野村の“の”の字もない」とボヤいたものだが、一転して“野村だらけ”にリニューアル。
ユニホーム、バット、ミット、サインなど南海時代のゆかりの品であふれかえった。
三冠王色紙 1965(昭和40)年 「運鈍根」
家族の協力により、南海でのラストシーズンとなった1977年に着用した背番号「19」のユニホームやバット、キャッチャーミットなどが展示された。
いつも静かなギャラリーだがこの日は熱心なファンが詰めかけ、「杉浦の血染めの4連投」とか「江夏の21球」のエピソードに花が咲いてる。
球団史もノムさんが加わることによりがぜん華やかになった。
1954年、南海にテスト生として入団。
背番号は60。
同期入団には皆川睦雄や宅和本司がいる。
3年目の1956年には背番号が19に変わる。
ハワイでの春季キャンプで一軍メンバーに抜擢されると、そのまま正捕手に定着し、レギュラー1年目で早くもベストナインに選ばれた。
杉浦忠
卒業後は日本ビールか朝日新聞社への入社も考えていたが、1958年に南海ホークスへ入団。
夢にまで見た大阪・御堂筋の優勝パレードで、ファンの歓呼に応える(先頭車左から)杉浦忠投手、中沢不二雄パ・リーグ会長、野村克也捕手ら南海ナイン=1959(昭和34)年10月31日。
1965年には戦後初の三冠王に輝く。
捕手の三冠王はメジャーリーグでも前例がなく、鶴岡は「捕手という重労働の中で、ノムは三冠王をものにした。
それだけに、ほかの選手がやる以上にりっぱなものです。
捕手で三冠をとったのは、もちろん世界で初めてです」と祝辞を述べている。
杉浦忠
下手から浮き上がる速球と横に大きく曲がるカーブで相手打者を手玉に取り、この年は27勝を挙げて新人王を獲得、鶴岡を「これでやっと西鉄を叩くことが出来る」と喜ばせた。
2年目の1959年は38勝4敗(勝率.905)という驚異的な成績で南海のリーグ優勝に貢献し、MVPを獲得、日本シリーズ(対読売ジャイアンツ戦)では第1戦から4連投し、4連勝の大活躍で南海を初の日本一に導き、シーズンに続いて日本シリーズMVPを獲得した。
大阪球場で迎えた第1戦と第2戦、杉浦は第1戦に先発、第2戦にもリリーフ登板し、2勝を挙げた。
ここで監督の鶴岡は、一気に勝負に出る。
舞台を敵地・後楽園球場に移した第3戦、雨天中止を挟んで迎えた第4戦にも杉浦を先発登板させ、ともに完投勝利を収める。
その第4戦では、指のマメをつぶしながらの「血染めの4連投」を完封で飾り、杉浦擁する南海はついに悲願の「打倒巨人」を成し遂げた。
野村氏と南海の確執
南海の監督兼捕手だった野村氏は1977年のシーズン(2位)残り2試合で解任された。
球団が当時交際中の沙知代夫人(17年死去)の言動を問題視したため。解任理由を不服とする野村氏は大阪府豊中市刀根山の自宅マンションに江夏豊、柏原純一らと籠城。
「鶴岡元老の圧力に吹き飛ばされた」と元監督の鶴岡一人氏(00年死去)を批判し、ロッテに移籍。
球団だけでなく、恩師とも絶縁状態になった。
18年2月の巨人とのOB戦でホークスの総監督を務めるなど、近年雪解けの気配があった。
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