明治25年(1892)頃から続く、約600メートル、約200店舗の商 店街。
元は九条新道と呼ばれる大通りでしたが、戦前は芝居小 屋、寄席小屋、映画館が10軒余りもあって、近くには松島遊郭など もあったので大いに賑わい、「西の心斎橋」とまで称された。
今もあちこちに芝居の看板が・・・
下町市場の看板のかかる路地、こちらも面白そう。
九條東小学校の石碑「暴風水害記念誌」
この学校(西成郡九条村)は明治8(1875)に設置され、戦後、学制改革により大阪市立九条東小学校と改称(昭和22年・1947)後、140年以上のときを経てきた。
昭和9(1934年)には室戸台風により、九条東小学校は校舎は被災し、校舎の壁には、兒童らを抱き抱えた先生の姿と台風の模様を記した銅板がはられている。
説明版によると、室戸岬(高知県)より風速60mの突風台風は、3mほどの高潮と伴い、午前8時に大阪市を襲い、これまでにない惨禍をもたらしたという。
市内の家屋、工場、店舗は倒壊・流失、公営物の損害等があり、死者990名、重軽症者16908名にのぼる。
なかでも小学校の被害は甚だしく、校舎の全壊28、半壊71、大波77、それに殉職教員7名、惨死児童269名に及んだ。
九條一帯は大きな難は免れるも、屋根瓦は木の葉のごとく飛び散り、濁流が押し寄せ、全戸床上浸水した。
交通・通信・電燈は途絶し、各学校に殺到し、避難者は100名に達し、前代未聞の大災に遭たが、西区はひとり死傷者も出ずに復興の途についた。
これは、区内の関係者各位の応急の措置によるもので、『禍を転じて福と為し』で、今や新興の気概をもち、第一、第二、第五各小学校の復興も目前にあると記されている。
九條教育会は、各種団体と協議し、事蹟を碑に刻みこれからの戒めの備えとするために記す、昭和13(1928)年3月の刻印がある。
ナインモール九条商店街
約300メートル、約100店舗の商店街。
大阪ドーム型 のシュークリームを売る店があるなど、近鉄バファローズ が大阪ドームを本拠地としてから商店街全体でバファロー ズを応援しており、別名「バファロード」という。
ここも元は九条新道でした。
近くには大阪のミニシアターとし て「第七藝術劇場」(淀川区)と双璧をなす「シネ・ヌーヴ ォ」があり、大阪の通好みな映画ファンの期待に応えています。
大阪市電創業の地碑
明治36年(1903)、九条新道の花園橋を起点に築港埠頭まで の約5キロメートルに大阪市電が開通。
公営による電気鉄道は 日本初の快挙でした。
翌年(1904)には、これまた日本初の試 みで「2階付電車」が走り、これは路面電車の上に長椅子が並ぶ テント屋根付きのデッキを備えたもので、夏は「納涼電車」、冬 は「魚釣り電車」と呼ばれて一躍、大阪名物となりました。
この 「2階付電車」は市電創業50周年記念のさいに模擬電車が作ら れ、現在、緑木検車場(住之江区)に保存されています。
その後 も大阪市電は拡張し続け、最盛期には総延長約110キロメート ルまで路線が拡大、市電としては東京都電に次ぐ規模に達しま した。
大阪市民に愛された市電でしたが、戦後は高速道路主体、 自動車偏重の都市計画が進む中、昭和44年(1969)にその栄 光の歴史を終えました。
ちなみに大阪市電2601形電車は現在 でも広島電鉄(900形電車)として現役で活躍中。
天満宮行宮が松島の地に移るまでは、戎島と呼ばれていた川口の現・本田小学校あたりにありました。
天神祭の舟渡御が木 津川まで来ていた頃の様子が錦絵に残されていますが、これ は戎島時代の天満宮行宮です。
京町堀川下流の地に天満宮の 御旅所が定められたのは1640年代後半頃とされ、それまで 鉾流神事にて御旅所を決めていたのがこれを機に御旅所は常設されることとなりました。(以後、鉾流神事は約300年中止さ れました。)
常設から約30年後に御旅所は戎島に移転されました。
それから約200年後、明治時代に入り、外国人居留地が川 口にできたことから御旅所は移転を余儀なくされ、明治4年 (1871)に松島の現在地へ移転。
戦前は松島からお 迎え船が盛大に出ていましたが、地下水汲み上げによる地盤 沈下で橋が下がり、舟の航行ができなくなって戦後は中止された。
京セラドーム大阪
平成9年(1997)に大阪ガス工場跡地に完成。
東京ドーム、福 岡ドームに次ぐ日本3番目のドーム球場です。
プロ野球のオリ ックス・バファローズの本拠地で、阪神タイガースも主催公式 戦の一部を開催している。
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