土壙墓(どこうぼ)
縄文時代晩期 前1000~400B.C
御所市観音寺本馬遺跡
人骨の近くに解説パネルがありました。
観音寺本馬遺跡(橿原市・御所市)で発掘された縄文時代晩期(今から約3,000年前)の土壙墓(どこうぼ)と呼ばれるお墓です。
この土壙墓からは、埋葬状態をよく示す人骨が出土しました。
そこで、発掘現場から遺構ごと切り取って、当研究所に持ち帰り、展示のために保存処理をおこないました。
埋葬状態と特徴
出土した状況から、1体分の人骨が、手足を折り曲げた屈葬の状態で、あお向けに埋葬されていることがわかります。
人骨の特徴から、埋葬された人物は20~60歳(比較的若い可能性がある)の男性であることがわかりました。
また、推定身長は約165cmで、縄文人の平均身長(158前後)に比べると、背の高い人物だったといえます。
奈良県では、縄文時代の人骨の出土例が極めて少ないことから、当時の埋葬方法と縄文人の特徴を知る上で、たいへん貴重な資料です。
土器棺墓
子どもが亡くなったときは、特別な扱いがされた。
大人の葬られる墓地にではなく、集落のはずれに葬ることがあった。
大きな甕(かめ)を棺とし、鉢や高杯(たかつき)で蓋をしたものが発見されている。
広い中庭のある博物館も珍しいと思われるのですが、その中庭の廊下に桜井市ホケノ山古墳の家形石棺が展示されていました。
こうして見ると、やはり存在感が違いますね。
蓋の部分には縄掛突起のようなものも見られます
太安萬侶墓(太安万侶墓)
昭和54年(1979年)、茶畑の開墾中に偶然に発見された墓室の中から遺骨や真珠とともに銅版製の墓誌が見つかりました。
墓誌には、日本書紀と並ぶ最古の歴史書である「古事記」の編纂者の太安萬侶の名前が刻まれており、現在のJR奈良駅の西に住み、養老7年(723年)に亡くなったことが記されていました。
このことにより、太安萬侶は、実在の人物であったことが証明されました。
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