大阪住まいの今昔館8F、明治から戦後にかけての大阪を代表する住宅地を再現した住まいの大阪六景の精密な住宅地の模型があり、マニアの間ではちょっと名が知られている。
船場の街区は基本的に40間(1間は6尺5寸)四方の正方形で、街路は碁盤目状に直交しています。
大坂城の西に位置することから東西方向が竪(たて)となり、東西方向の街路を通(とおり)と称しています。
通は計23本あり、当初の幅員は4間(約8m)に設定されていました。
一方、南北方向は横(よこ)となり、南北方向の街路を筋(すじ)と称しています。計13本。
当初は補助的な街路とされたために幅員は3間(約6m)となり、通に対して狭く設定されていました。
東西の通りを挟んで北と南で1つの町を形成しています。
両側町と呼ばれる形態で、町の名前は通の名前と一致していました。
伝統的な町家が建ち並んでいた明治時代の旧大坂三郷は、東西の通、南北の筋で構成される江戸時代以来の狭隘な道路が、近代化を進めるうえで大きな障害になっていました。
そこで「軒切り」と呼ばれる都市改造が実施されました。
もともとは町家の正面の一部を切り取って本来の道路の幅員を回復するものですが、市電の敷設工事や都市計画に基づく道路拡幅も軒切りと総称され、明治の終わりから昭和にかけて行われました。
堺筋などは市電の敷設に合わせて大きく拡幅されました。東西の通も軒切りによって拡幅されました。
模型は、堺筋を挟んだ道修町と平野町の一角の昭和7年(1932)の様子で、市電の敷設に合わせて拡幅された堺筋と、平野町通の拡幅前後を表わしています。
明治時代になって梅田、難波、天王寺に鉄道駅ができ、南北の交通量が増えたことから、市電の敷設と合わせて堺筋と四つ橋筋が拡幅され、さらに、昭和時代になって地下鉄の建設と合わせて御堂筋が整備されたことから、現在では南北の筋のほうがメインストリートとなっています。
軒切りを契機に大阪の都市景観は大きく変貌しました。伝統的な町家を取り壊して、洋風建築への建て替えが進みました。
町家形式の建て替えでも、階高が高く箱軒と呼ばれる軒蛇腹を大きくした町家や、3階建ての町家などが流行しました。
一方、建て替えをしなかった町家も、軒切りで表側が切り取られため、表構えが大きく変わりました。
町家の内部も、店の間を板敷きの事務所とするなど、生活様式や商売の形態の近代化に対応した改造が見られました。
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