魏志倭人伝(伊都国・奴国)を訪ねる旅 伊都国

九州

多くの学説が乱立する中にあって、魏の使者が伊都国までは確実に来ているという点は統一的な見解と言っても良い。

このことは、伊都国までの道程や自然環境の正確な描写からくるもので、『倭人伝』の記述にある[其餘旁国]の名称が先の北部九州六ヶ国の名称を組合せたものが多い点からも窺われ、実際に見聞したものではないためだと考えられる。

原文のおよその意味は、「(末廬國から)東南へ陸を500里行くと、伊都國に到る。
そこの長官を爾支(にし、じき)といい、副官は泄謨觚(せつもこ、せつぼこ)・柄渠觚(ひょうごこ、へいきょこ)という。

1000余戸の家がある。世々(丗)に王があるも、みな[1]女王國に統べて属する。
帯方郡(たいほうぐん)の使者が往来して、ここに常にとどまる場所である。」となる。

『魏志倭人伝』の中で『王』が居たと明記されている倭の国は伊都国と邪馬台国と狗奴国で、他の国々には長官、副官等の役人名しか記されていない。

伊都国に設置された「一大率]では、諸国が魏の都や帯方郡、朝鮮半島へ派遣する使譯たちを出国前に監督し、または、郡から使者が来たときはこれらを検閲していたとされる。

連合国家の中で伊都国が占める大きな役割のひとつである。
 
これまでの発掘調査では、一大率にあたる施設遺構は検出されていない。

しかしながら、『倭人伝』には検閲の際には港まで出向いたと記載されており、伊都国の領域内に倭人の港があったことは間違いない。

また、こうした施設が伊都国内に置かれた理由は、女王・卑弥呼の伊都国王に対する信頼の表れでもある。

旧怡土郡付近は大化の改新以前は怡土縣(いとのあがた)が置かれ、『日本書紀』によるとその祖の名は五十跡手(いとて)で仲哀天皇の筑紫親征の折に帰順したとされる。

『筑紫国風土記』逸文には五十跡手が「高麗の意呂山(おろのやま)に天より下った天日鉾命の後裔である」と天皇に述べたとある。

糸島市三雲を中心とした糸島平野の地域に伊都国があったとする説が有力。

弥生時代中期後半から終末期にかけて厚葬墓(こうそうぼ)(王墓)が連続して営まれており、それが三雲南小路遺跡・平原遺跡である。

井原鑓溝遺跡は遺物の点から「将軍墓」の可能性が高いとも言われる。

伊都国歴史博物館、建物は旧館と新館とからなり、新館1階に企画展示室・常設展示室1、エスカレーターを上ると3階になり、常設展示室2がある。

3階から連絡通路で旧館に渡ると旧館の2階に出、旧館常設展示室1・2がある。旧館1階にも若干の展示がある。

新館4階には展望スペース、図書コーナーと研修室があり、展望スペースからは周囲の山々と糸島平野を見渡すことができる。

平原(ひらばる)遺跡は糸島の山手、 雷山川と瑞梅寺川に挟まれた丘陵地帯の怡土地区にある、
ここは古墳が多く散見されるところでもある。

平原遺跡は1965年に発見された、弥生時代後期~古墳時代前記の墳墓遺跡群で、 史跡地内には1号墓(王墓)と他5基の墳墓が保存されている。

怡土城(いとじょう/いとのき)は、現在の福岡県糸島市にあった日本の古代山城(中国式山城)。
城跡は国の史跡に指定されている。

奈良時代に福岡市・糸島市の境にある高祖山の山腹西斜面に築城された。

『続日本紀』によると、遣唐使一行に加わること2度留学し、その後大宰府政庁の高官となった吉備真備が、孝謙天皇の命により天平勝宝8年(756年)6月築城に着手。

途中吉備が東大寺造営で佐伯今毛人と交代し神護景雲2年(768年)2月、完成されたとされる。

当時唐では、玄宗皇帝に対する安禄山の乱が勃発し、朝鮮半島では新羅が日本の国使との会見を拒否するなど、対外的な緊張が高まり九州の防備が急務となっていた。

城の特徴は中国式山城の築城法でもってたすき状に築かれ、山の尾根づたいに望楼(物見やぐら)を配し、西麓の平地に面して高さ10メートル南北2キロメートルにわたる土塁・石塁をもって固め、その間に城門や水門等を造り、敵襲に備えたとみられる。土塁の外側には幅15メートルの濠も確認されている。

現在遺構としては、高祖山の西裾に1.6キロメートルの土塁、尾根線上に計8か所の望楼跡が残るものの、城内はどのように利用されたか、いつごろ廃城となったか等不明な点が多い。

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