藤原京から平城京への遷都は文武天皇在世中の707年(慶雲4年)に審議が始まり、708年(和銅元年)には元明天皇により遷都の詔が出された。
これが第一次大極殿。
藤原不比等主導の遷都であった。
飛ぶ鳥 明日香の里を置きて去(い)なば
君があたりは 見えずかもあらむ 巻1-78 元明天皇
( 飛ぶ鳥の明日香の里よ。この里をあとにして行ってしまったなら、あなたのいらっしゃるあたりはもう目にすることが出来なくなってしまうのではないだろうか。)
長屋原は藤原京と平城京の中間の地。
女帝はこの場所で50年間過ごした明日香古京と決別し平城京の領域に進むのです。
御輿のすだれをあげて遥か南方を望むと畝傍山が見え、その左に低く真弓の山並みが続いています。
真弓の丘の一角には即位する事なく逝った最愛の夫、草壁皇子が眠っているのです。
二人の間に生まれた文武天皇も早世し、自らの慌しい即位。
亡き天武、持統天皇とも過ごした故郷を振り返る女帝の胸には万感の思いが去来したことでしょう。
東を見れば若草山が見渡せる。
藤原不比等の本拠はこちらにあります。
万葉の旅 大和三山を訪ねる 藤原宮跡
平城京への遷都の理由は … 続きを読む →
大君の命(みこと)畏(かしこ)み にきびにし家を置き
こもりくの泊瀬(はつせ)の川に 舟浮けて
我が行く川の 川隈(かはくま)の 八十隈(やそくま)おちず
万(よろず)たび かへり見しつつ 玉鉾(たまほこ)の 道行き暮らし
あをによし 奈良の都の佐保川に い行き至りて- -
巻1-79 作者未詳
或本 藤原の京(みやこ)より寧楽(なら)の宮に遷る時の歌
( 我が大君の仰せを恐れ多くも謹んでお受けし、馴れ親しんだ我家を
あとにいたしました。
山深い初瀬の川に 舟を浮かべて出発し、
行く川の多くの曲がり角ごとに
幾度も幾度も故郷を振り返り
漕ぎ進んでいるうちに日も暮れてまいりました。
そして、青丹が映える奈良の都の佐保川にたどり着いたのです。)
なぜ? ふたつの大極殿
大極殿は、天皇の即位などの大切な儀式がおこなわれていた場所です。
平城宮にはこの大極殿の跡が2つも残っています。なぜでしょう?
聖武天皇は740年から745年まで、現在の京都、大阪、滋賀と、都を転々と移し替えたのですが、その際それまであった大極殿をあわせて解体、移築しました。745年には再び平城京を都としましたが、このときには以前の大極殿があった東側に新しい大極殿を建てたのです。
現在の平城宮跡にみられる「第一次大極殿」は元明天皇が建てた大極殿、「第二次大極殿」は聖武天皇が建てた大極殿です。
聖武天皇は後半生で平城京を5年間も不在にして、伊賀、伊勢、尾張、不破(関ヶ原)、信楽、近江などを彷徨したといわれています。
ノイローゼになったと通説では言われますが、最近の研究では、曾祖父の天武天皇が壬申の乱で天智天皇(中臣鎌足と二人三脚だった天皇です。)の息子大友皇子を破った時の足跡を順番に訪ねていたようです。
後半生聖武天皇は天武天皇を尊敬し、天武天皇の足跡をなぞることで、『藤原の子』→『天武の子』になろうとしたようです。
大仏様は、光明皇后と共に藤原四兄弟により無実の死を遂げた長屋王の怨霊鎮魂のために作ったもの、国分寺、国分尼寺を全国に作ったのは、天武天皇の遺志を引き継いだものと言われている。
遺構展示館
通常、発掘調査が終われば再び埋め戻されるがここでは発掘調査で見つかった遺構をそのまま見ることができます。
写真は北棟の遺構露出展示コーナーを撮影したものですが、点在するこの穴ぼこの数々、いったい何だと思いますか?これは建物の柱穴を示したもの。
ご覧のように、土に穴を掘り、直接、柱を打ち立てた掘立柱の形式で建物が建てられていたことがうかがえますが、特に注目していただきたいのは、画面奥側の遺構部分。
大きさの異なる柱穴が密集し、ところによっては柱穴が重なっている部分も見られる。
これは奈良時代のあいだに建物が何度も建て替えられたことを指し示したものであり、一口に奈良時代の遺構といっても、時代による変遷があったことがうかがえる。
宮内省復元建物。
平城宮跡資料館でも様々な復元の様子が見える。
画像は長岡京への遷都の準備の様子のジオラマ。
奈良時代の食事の様子。
東朝集殿復元模型。
創建時の唐招提寺講堂復元模型
平城宮の東朝集殿を移築・改造したもので、天平宝字4年(760年)頃、平城宮の改修に伴って移築された。
東朝集殿は、壁や建具のほとんどない開放的な建物で、屋根は切妻造であったが、寺院用に改造するにあたって、屋根を入母屋造とし、建具を入れている。
鎌倉大修理後の唐招提寺講堂復元模型
鎌倉時代に 軒などを改造し、連子窓( れんじまど)、桟唐戸(さんからど)をつけたして、外観は 鎌倉時代の建物だが、奈良時代の宮廷建築の唯一の遺構。
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