前田利長の隠居城 富山城

利長は男子がなかったので、異母弟の利常(利家の四男、初名は利光)を養嗣子として迎え、越中国新川郡富山城に隠居した(隠居領は新川郡22万石)。

幼い利常を後見しつつ富山城を改修、城下町の整備に努めた。
慶長14年(1609年)、富山城が焼失したため一時的に魚津城で生活した後、射水郡関野に高岡城(高山右近の縄張と伝わる)を築き移った。

富山城に拠点を構えた成政は富山城の大規模な改修を行った。
本能寺の変の後、豊臣秀吉と離れた佐々成政は、天正13年(1585年)8月、秀吉自ら率いる10万の大軍に城を囲まれ降伏し(富山の役)、富山城は破却された。

越中一国が前田家に与えられると、前田利長が大改修を行い金沢城から移り住み隠居城としたが、慶長14年(1609年)に建物の主要部をことごとく焼失したため、高岡城を築いて移り、富山城には家臣の津田義忠が城代として入った。

堀を一周してみる、石垣が白と黒のゴマ塩みたいになってるのは安山岩と花崗岩を組み合わせて築かれていため。
安山岩は常願寺川から、花崗岩は早月川や黒部川などから運んだと考えられています。

神通川の流れを引き込み(松川) 「浮城」の異名をとった。

本来の富山城は石垣は主要な門の周囲のみであり他の大部分は土塁の城であったが、昭和・平成と模擬天守東側に石垣が新造されたことで往時の歴史的な姿とはかなり異なるものとなっている。

史実に基いた復元工事ではなく、土塁であった場所も総石垣にされるなど、観光色の強い整備事業となっており、残念。

橋を渡ると、そこは石垣虎口となっており、右に2石、左に1石、前に2石の計5石の鏡石が配されています。

この5石は陰陽道の五芒星を意味するとも言われている。

その石垣を進んで、右に折れたところに鉄御門がある。

「何事もかわりはてたる世の中に知らでや雪の白く降るらん」と書かれた成政の歌碑。

これは天正13年暮れに天正大地震で被災した民衆を見舞うため、久しぶりに越中に入国した成政が、心を痛めて詠んだ歌であると言われている。

この句を辞世の句として紹介されるケースがよくあるが、成政の辞世の句と言えば「この頃の厄妄想を入れ置きし鉄鉢袋今破るなり」であろう。

前田正甫(まえだ まさとし)は越中富山藩の第2代藩主。

製薬業に興味を持ち、江戸城腹痛事件で名をあげた反魂丹を製薬して諸国に広め、越中売薬の基礎を作ったというエピソードは有名。

以後の富山藩繁栄の名君、また地場産業である製薬業の興隆の祖として現在、富山城址公園内に銅像が建てられている。

上記の事績により名君とされる一方で遊びも好きであり、女癖が悪く、また、狼狩りを好んだと伝わる。

平成の石垣、千歳御門脇(南側)の平成20年(2008年)に完成した石垣。
幅11メートル、高さ7メートル、奥行き12メートルで、富山城の石垣に使用された早月川の御影石を用いている。

今回の度も終わりです、大津サービスエリアでトイレ休憩、暮れゆく空の景色がきれいです。

前回訪問時の記事ササラ峠越えのエピソードを残す 富山城です。

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富山城へのアクセス、行き方歩き方

富山市本丸1

富山駅から徒歩約10分、富山空港より連絡バスで約20分(城址公園前下車)