1925年(大正14年)に京都山科から奈良市幸町に引っ越してきた志賀は、奈良公園に隣接し若草山の眺望も良い高畑に居宅を1929年(昭和4年)4月建設した。
自ら設計に携わり、1938年(昭和13年)から東京に移り住むまでの10年間を家族と共にこの家で過ごした。
数寄屋造りに加え洋風や中国風の様式も取り入れており、洋風サンルームや娯楽室、書斎、茶室、食堂を備えたモダンかつ合理的な建物であった。
直哉の昭和6年4月に書かれた日記に「これから二階の書斎を充分に利用しよう」という記述があります。
二階の書斎は、窓から見える景色が絶景で、静かで落ち着ける場所だったようですが、南から陽が入るので冬場などは一階より快適に過ごせたはずです。
小説『暗夜行路』もここで書き上げたとされています。
窓から見える若草山の景色がすばらしい客間。
小林多喜二らがここに泊まったとされている。
この部屋の床の前に飾られていた仏像は、その入手を谷崎潤一郎と争ったもの。
仏像は谷崎の手に渡り、その購入予定金でこの家を建てた。
仏像は後に直哉の下に来ましたが、現在は、早稲田大学会津八一記念博物館にあります。
白樺派の精神を生かしたと言われる6畳の茶室。
にじり口は大きく障子3枚、中央に炉が切ってあり、各区画の造りが異なったりとても優美な天井など、建築を請け負った下島松之助が 裏千家関係の数奇屋大工だったため、精魂込めて造られています。
直哉は来客と気軽に話をしたり、将棋をさしたりする部屋にするつもりだったようですが、結局、夫人と子供たちのお茶のお稽古に使われたようです。
6畳の洋室。
北側に位置し、日差しの変化が少ない落ち着いた空間。
書斎西隣の納戸は書庫として使用していた。
庭にはスノードロップが可憐な姿を見せる。
アセビも満開。
食堂は9.84坪(約20畳)。
白壁の天井、珍しい赤松の長押(なげし)、大きな牛皮張りのソファーなど数奇屋風、洋風、中国風を調和させ、 美しくモダンな造りになっています。
ひっきりなしに訪れる来客はここで家族と一緒に食事をしました。
また、子供たちの娯楽室でもありました。
食堂の隣はサンルーム。
食堂からサンルームへの出窓とカウンターがモダン。
この部屋に志賀を慕って武者小路実篤や小林秀雄、尾崎一雄、若山為三、小川晴暘、入江泰吉、亀井勝一郎、小林多喜二、桑原武夫ら白樺派の文人や画家、また陶芸家今西洋など様々な文化人がしばしば訪れ、文学論や芸術論などを語り合う一大文化サロンとなり、いつしか高畑サロンと呼ばれるようになった。
『奈良高畑の志賀直哉旧居-保存のための草の根運動-』の著者で洋画家の中村一雄氏は、志賀直哉旧居の西隣にお住まいです。
昭和53年のある日、志賀直哉邸取り壊しおよび改築計画の知らせを聞き、直ちに保存のための市民運動を始めました。
当時のことでしたから、運動に対する住民の意識は低く、大変なご苦労をされました。
が、ついには邸の全面保存にまで持ち込み、運動を成功に導きました。
この間中村氏を支えたのは、高畑サロンの一員であった氏の父上中村義夫画伯と、“隣のおじさんとして親しんだ志賀さん”への熱い思いだったと言われます。
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