高岡 土蔵造りのまち

北陸


北陸新幹線が開業して身近になったと言われる北陸地方。
終点金沢駅の1つ前の停車駅、高岡市には、全国的にも珍しい土蔵造りの家々が連なる町並みが残っています。

木舟町の重要文化財「菅野家住宅」や、小馬出町の高岡市指定文化財「高岡市土蔵造りのまち資料館(旧 室崎家住宅)」では、土蔵造りの商家を一般公開(共に有料)している。

明治33年に大火が起きて、この辺りの町の大部分が焼け落ちてしまうという不幸がありました。
しかし大火の中でも多く焼け残ったのが土蔵造りの建物でした。

それを教訓として、燃えにくい家を建てるという規則ができ、現在のこの土蔵造りの家々の連なる町並みとなったのです。
壁は燃えにくい漆喰で塗り固められ、延焼を防ぐために家と家の間には、レンガ造りの壁を設けてあります。

山町筋は加賀藩前田利長が高岡を発展させようと近隣の城下町から町人を招いて住まわせた町であり、現在もその伝統が息づく町として知られています。

1614年(慶長19年)に利長が亡くなった後、江戸幕府による1615年(慶長20年)の一国一城令により高岡城が廃城となり、家臣達も金沢へ引き上げたことにより城下町として栄えた高岡の町は荒廃が進んだ。

そこで高岡町民に第3代藩主・前田利常が、1620年(元和6年)に町外転出禁止を命じ、廃城になった高岡城に藩の米、専売品である塩の蔵を建て、中心的地集積地とし流通拠点に、魚介鳥類を河原町の問屋に集め、藩内の流通拠点に、砺波地方特産の布製品の検印をすべて高岡で受けるようにするなどした。

また利長が町発展のため、1611年(慶長16年)金屋町を鋳物(銅器)生産の町として開いたが、利常はこちらの生産・流通にも力をいれるなど、商工業の振興に力を入れ城下町から商工業都市として発展し、加賀藩の中で金沢に次いで栄えた。

明治時代に入り、1883年(明治16年)高岡は富山県となり、1889年(明治22年)4月1日の市制施行では全国31都市のひとつとして高岡市が誕生した。

この時代には米やニシン肥料の取引所開設による流通拠点として、また高岡銅器も隆盛を迎えた。
1887年(明治20年)以降は、新たに紡績業や電灯会社が設立されたり、高岡に鉄道の開通など、日本海側有数の商工業都市となった。

北陸の金融街としても栄えた山町筋には銀行がたくさん。

写真はこの山町筋にある富山銀行本店。
「赤レンガの銀行」として市民に親しまれてきました。

現在も普通に銀行の業務を行っており、レトロな外観とは裏腹に、内部は実に近代的な様相にリフォームされています。

秀吉ゆかりの絢爛たる山車を所有する町人の町。

豊臣秀吉が後陽成天皇を聚楽第に迎えた際に使ったとされる御所車を、加賀藩初代藩主利家が拝領し、二代目利長が1609年、高岡に入った際、町民に与えたという謂れのある、7基の山車(やま)。

高岡の工芸技術者たちの手によって、絢爛たる装飾が加えられ、町民たちが町ごとに大切に保管してきたものが残っています。

瀧の白糸の碑

明治の文豪泉鏡花の初期の名作「義血侠血」(明治27年読売新聞発表)のモデルとなった片原町に建立されています。

当時北陸道の高岡から金沢まで乗合馬車が走っていました。

高岡の馬車待合所で、水芸人滝の白糸と馬丁村越欣弥が初めて出会い、悲しい恋物語がはじまっていきます。
昭和32年には、この待合所があったとされる片原中島町に建立されていましたが、現在は、御旅屋西通りの地区の一角に移転されました。

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