首里金城町石畳道は、首里城から国場川の真玉橋に至る長さ4km総延長10kmの官道であった真珠道の一部で、琉球王国尚真王の治世である1522年にその建造が始まった。
第二次世界大戦の沖縄戦で真珠道の大半は破壊されたが、金城町に現存する238mの区間が首里金城町石畳道としてその姿を現在に伝えている。
下ってまた登らなければならないのでそれなりの覚悟が必要、しんどいがご褒美はそれ以上にある。
道には年月を経て光沢を帯びた琉球石灰岩の平石が敷きつめられたままで、沿道には近世以前の石垣も多く現存する。
沖縄県指定史跡で、日本の道100選の一つ。
表のみを旧来のまま残した民家、こういうの見るとうれしくなるねえ。
金城大樋川(カナグシクウフフィジャー)
金城村屋の隣にあります。
以下説明文より。
金城大樋川は金城村の共同井戸で、急な崖の下から二つのかけ樋で地下水を導き出しています。
その前には、約10mほど石積みを施し、半月形の貯水池を設けています。
さらにその前には、石敷きの広場が作られ、南側には排水溝があります。
樋川の周囲の三方は、土留めの石積みがなされ、特に背後は、四段に分けてがっちりと積まれています。
東側の集会所のところは、かってフィージャーモーと呼ばれた広場で、坂道を上下する人馬が樋川の水で喉を潤し、一息入れた場所でした。
また、広場から石畳道を挟んだ東側は、薩摩に学び沖縄で最初に和紙を漉いた大見武筑登之親雲上(おおみたけちくどうんへーちん)の屋敷跡で、17世紀の末ごろ、この樋川の水で和紙がつくられたようです。
「首里城下の細い路地には貴人や役人が住んだ御殿が立ち並び首里城へ日参する人々が往来していた」
石畳道と石垣がどことなく時代を感じさせてくれる「16世紀に作られたものとは思えないくらい違和感がない!」そんなことを思いながら首里城の役人になった気分で坂道を下っていった・・・・
金城村屋(かなぐしくむらや)。
集会所兼休息所です。1996年築だそうです。
ここに掲げられていた文です。
石畳の石
この石をよくご覧下さい。
芋を真二つに切り、平らの部分を上に、半丸の方を下にして土床にねかしたように敷かれている。
この石は全て貴重な琉球石灰岩でできている。
一見何の変哲も無いこの石畳が、約500年の間幾多の風雨や戦乱にもめげず今日まで耐えてきた。
首里城より南部への要路としての交通のみならず、人々の生活に不可欠な水の確保に重大な貢献をなしたことは特筆すべきことである。
石畳に落ちた雨水は特別に加工された土床により、吸水、浸透、濾過される。
また、瓦れき、砂利等を敷くことにより、スーフカと称する用水溝へ注がれ、任意の村井(ムラガー:共同井戸)へと誘導される。
島国で限り有る小数の可動力のみで、長い年月を費やし、失敗を繰り返し、血のにじむ努力を重ね、ついに命の水を口にした
辻々の村井は全て豊富な水で潤った。
先人達の高度な土木技法は、現代の技術を以っても難しく、復元に苦慮するところである。
今私達はその石畳の上に立っている。
天の恵みと先人達の英知に感謝し、平和がこの「石畳の石」と共に永遠なれと願わずにはいられない。
内金城ヌ大嶽(うちかなぐすくぬうふたき)
首里金城町の石畳道脇にある御嶽。
赤い格子の前に、香炉が三つ置かれている。
石積みの左横にも小さな祠のようなものと香炉が置かれている。
ガジュマルやクワズイモなどの植物がうっそうと生い茂る森の中に、樹齢200~300年の大アカギ6本が立ち、東側に大嶽、西側に小嶽がある。
「首里金城の大アカギ」とも呼ばれる巨木は、国の天然記念物にも指定されている。
沖縄の行事「鬼餅(うにむーちー)」の由来となった鬼餅伝説が残されている。
この大アカギの根元には自然の祠がありまして、中には小さな仏像が収められていました。
300年間のいつの頃からか、根元に自然の祠ができ、この場所に旧暦6月15日に神が降りられ、願い事を聞き上げられていると、古老の言い伝えがあります。
石畳道は、古の遺産であると同時に、地域の生活道路でもあります。
車も通ります。
この道を、琉球王朝時代の国王が冊封使と共に識名園に向かい、庶民が日々の生活でこの道を利用し、戦時中は米軍が掃討作戦を展開し、そして現在は観光客が行き来し、NHKがちゅらさんを撮った。
首里城歓会門と守礼門との間にある世界遺産園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)がこの御嶽の礼拝所である。
園比屋武御嶽石門は、1519年に第二尚氏王統第3代王の尚真のときに造られた。
オヤケアカハチの乱(1500年)で王府軍が八重山へ出兵した際に、将の一人であった大里親方に見込まれ首里に連れてこられた西塘(にしとう)により創建されたという。
石門と周辺一体の森のことを総称して園比屋武御嶽(そのひゃんうたき)という。
尚真(しょうしん)(在位 1477~1526年)によって1519年に創建された、築造者は竹富島出身の西塘(にしとう)。
この御嶽は国王が各地を巡航する旅に出る際必ず拝礼した場所であり、また聞得大君(きこえおおきみ)が就任する時にまず最初に拝礼した、いわば国家の聖地だった。
園比屋武御嶽石門を裏から見たところ。
石造には珍しい?懸魚の装飾が。
第32軍司令部壕跡
首里城と弁財天堂との間の木々の中にひっそりと、首里にあった旧日本軍の第32軍司令部壕の痕跡が残っています。
案内板も説明板も無く、首里城とは対照的に、観光客はだれも誰も訪れてはいません。
草場の中に埋もれようとしているこのコンクリートの残骸が、旧32軍司令部壕の入口の一つでした。
現在戦闘による落盤の為、この入口からは入る事ができません。
壕は首里城の下,長さ1,000m余りにもわたる。
円覚寺跡
第二尚氏の菩提寺として弘治7年(1494年)に鎌倉の円覚寺を模して建立された。
円覚寺跡(総門・放生池・放生橋)
第二尚氏の支援を受けて繁栄し、寺前にある円鑑池(えんかんち)では、中国からの冊封使を招いて宴が開かれるなど、琉球王朝史の中で極めて重要な位置を占めていた。
周辺には石畳や水路の光景が広がり、首里城内の湧水・雨水が集まる仕組みとなっています。
弁財天堂は池の中央に浮かんでいるかのように佇む赤瓦の小堂。
航海安全を司る水の神・弁財天を祀っています。
1502年、朝鮮より渡来した方冊蔵経(仏教経典の大百科のようなもの)を収納するために建立されましたが、1609年薩摩軍による戦火で焼失。
やがて1629年に円覚寺の弁財天を移して弁財天堂としました。堂に渡る小橋は「天女橋」と呼ばれ、その素材には琉球石灰岩を使用。
海運業者たちは船の航海安全を祈願するために弁財天を崇(あが)め、航海があるたびに盛大な祈願祭を行っていた。
弁財天を祀(まつ)る理由は琉球特有のオナリ信仰と関わりがある。
船乗りの男たちは姉か妹がオナリ神となって自分を守護すると信じていた。
船乗りたちはオナリ神になった姉か妹の髪を懐紙に包みお守りとしたものだ。
弁財天は女性の神であり、オナリ神に通じる。
この弁財天を管轄するのは、王のオナリ神である聞得大君だ。
円鑑池から琉潭池(りゅうたんいけ)に続く遊歩道 円鑑池から戻り、又少し行ってから階段を下りていくか、回り込むように進むと、一段低くなった琉潭池の南端にでます。
ここは1427年、冊封使の進言により造られた人工池といわれ、「香りのする木や花を植え、万人が利用できるようにして太平の世の象徴として永遠の記念とした」などと書かれた石碑がありました。
冊封使をもてなす船遊びの宴も、ここで行われたと言うことです。
首里金城町石畳道へのアクセス、行き方歩き方
住所:那覇市首里金城町
電話:那覇市観光課 098-862-3276
ゆいレール: 首里駅から徒歩12分
石畳前バス停からすぐ