『源氏物語』にも登場する観世音寺は、天智天皇が、母君斉明天皇の冥福を祈るために発願されたもので、80年後の聖武天皇の天平18年(746年)に完成した。
古くは九州の寺院の中心的存在で、たくさんのお堂が立ちならんでいたが、現在は江戸時代初めに再建された講堂と金堂(県指定文化財)の二堂があるのみ。
境内はクスの大樹に包まれ、紅葉、菩提樹、藤、アジサイ、南京ハゼと季節が静かに移る。
昭和34年(1959年)多くの仏像を災害から守り完全な形で保管するため、国・県・財界の有志によって、堅固で正倉院風な周囲の景色に馴染みやすい収蔵庫が建設された。
この中には平安時代から鎌倉時代にかけての仏像16体をはじめ、全て重要文化財の品々が収容されており、居並ぶ古い仏たちに盛時がしのばれる。
西日本最高の仏教美術の殿堂のようで、特に5m前後の観音像がずらりと並んでいる様には圧倒される。
また仏像の多くが樟材で造られたのも九州の特色といえる。
僧房跡、修行する僧たちの学問所兼寄宿舎址。
観世音寺の創建当時、講堂の北側には僧房の建物群があった。
修行する僧たちの学問所兼寄宿舎の性格を持っていた。
そのうち最も大きな建物を「大房」といい、長さ104m、幅10mの細長い建物で、数人ずつが起居するように仕切られていた。
現在の礎石は近年復元したもの。
この神社は観世音寺の鎮守であり、地元では「ヒヨシ神社」と呼ばれる。
比叡山の日吉(ひえ)大社を分霊したもので平安時代末には置かれていたらしい。
江戸時代の地誌によると、豊臣秀吉が九州下向の折、この日吉社に陣を張ったが、時の観世音寺別当は世情に疎く、秀吉の威光を憚ることなく車に乗ったまま面前に出て秀吉の怒りをかい、寺領を没収されたと伝える。(太宰府市案内板より)
観世音寺の境内には、五重塔(ごじゅうのとう)の中心の柱である心柱(しんばしら)を据えていた礎石<=心礎>がある。
かつて、東面する金堂と向き合うように西面した五重塔が建っていた。
現在は心礎の巨石と地覆石(じふくいし=建物の出入り口や基壇の下部に据えられた石)が残るのみ。
この梵鐘は京都妙心寺の梵鐘と兄弟鐘といわれ、その古さに於いても優秀さに於いても正に日本一と称され、糟屋郡多々良で鋳造されたと伝えられている。
榎社にいた菅原道真公の詩に「都府楼は纔(わず)かに瓦色を看る 観音寺は唯(ただ)鐘声を聴く」とあるのはこの鐘。
現在この梵鐘は「日本の音風景100選」に選定されている。
古代の人々も聞いた鐘が現代のまちにも鳴り響いている。
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