毛越寺は中尊寺と並び平泉町を代表とする寺院で、国特別史跡と特別名勝に指定されている。
「吾妻鏡」によると慈覚大師円仁が開山し、主に藤原氏二代基衡、三代秀衡が再興し伽藍の造営にあたった。
寺名の詠み
毛越寺はモウツウジと詠みます。
通常、越という字をツウとは読みません。
越は慣用音でオツと詠みます。
従ってモウオツジがモウツジになり、更にモウツウジに変化したもの。
「夏草や 兵どもが 夢の跡」 の英文の句碑。
新渡戸稲造が英訳したもの。
伽藍復元図
中央の池左手前に南大門があり、橋を渡った向かいに金堂があった。
手前の門が南大門だと言う事なので、中島を渡って北方向にある金堂円隆寺(こんどうえんりゅうじ)にお参りするように造られていたらしい。
昭和29年から5年間かけて発掘調査された。
金堂跡を右手に見ながら池辺に沿って進み西岸にまわると、南大門の西寄りには池水面より約4メートルほどの高さの築山があります。
水際からその山頂近くまで、大小各種の石を立て、岩山の姿を造り出しており、深い淵に臨む断崖の景観を思わせます。
開山堂
毛越寺を開いたといわれる慈覚大師をまつる堂です。
両界大日如来像、藤原三代(清衡、基衡、秀衡)の画像を安置しています。
開山堂に祀られている慈覚大師。
嘉祥寺跡
金堂円隆寺の西に、杉並木に囲まれてほぼ円隆寺の大きさに近い土壇があります。
巨大な礎石が完存するこの建築跡は、古来嘉祥寺跡として言い伝えられてきました。
嘉祥寺は『吾妻鏡』にある嘉勝寺に相当します。
そしてその東側に嘉祥寺跡と同規模の金堂円隆寺跡があります。
これこそが毛越寺の中心伽藍で、本尊は運慶作の薬師如来だったそうだ。
地蔵菩薩
お地蔵様は餓鬼道の能化(のうけ、仏菩薩)である。
地蔵十益、地蔵二十八益という御利益がある仏様で、手に持つ宝珠は如意の玉ともいわれ、このお地蔵様を信仰すれば、願い事が意のままになるという意味である。
遣水(やりみず)
池の北側には、平安時代の遺構としては、日本唯一最大のものとされる遣水があります。
池に水を引くためと曲水の宴を開くために造られたものでありますが「作庭記」に記述されている四神相応・吉相の順流が゛“遣水”の現場所であり、曲がりくねる水路の流れに、水切り、水越し、水分けなどの石組がなされ、四季折々の景色とあいまって、素晴らしい景観をつくっています。
常行堂
もとは金堂(円隆寺)の東側に法華堂と並んで建てられていましたが、慶長2年(1597)4月、野火のために焼失した。
享保17年(1732)、仙台藩主伊達吉村公によって再建された現在の堂は、宝形造りで須弥壇中央に本尊・宝冠の阿弥陀如来、両側に四菩薩、奥殿には秘仏としてあがめられている摩多羅神(またらじん)がまつられています。
鐘楼
現在の鐘は昭和50年、人間国宝香取正彦氏の作で、天台座主山田恵諦大僧正の銘が刻まれています。
姿形は、平等院風を思わせ、美しい音色を響かせています。
常行堂跡
法華堂跡と伝えられる土壇の西方、40尺内外さきに、方五間茅葺方形造の常行堂が南に面してあります。
この建物は享保年間に建築されたものですが、おそらく創建以来、同じ位置にあるものと考えられてきました。
ところが発掘調査によって、常行堂跡が現行の常行堂の位置とは違うことが明らかになりました。
今、常行堂跡と呼ばれる遺跡は、法華堂跡土壇の南方約30尺にある土壇です。
発掘調査時には大変に保存状態が悪く、残存している礎石もありません。
洲浜
池の東南隅に築山と対照的に造られた洲浜は、砂洲と入江が柔らかい曲線を描き、美しい海岸線を表しています。
他に比べて池底を特に浅くし、広々と玉石を敷きつめているので、水位の昇降に応じて現れるゆったりした姿を眺めることができます。
出島と立石
約3000坪の広さを持つ大泉が池は水際に海岸の風景を、また随所に山水の景観をうつして絶景です。
なかでも池の東南岸にある荒磯(ありそ)風の出島は、庭園中最も美しい景観の一つです。
池辺から水中へと玉石を敷きつめ、石組が突き出し、水中には岸から約11メートルの飛島に高さ約2メートルの立石がそそり立っています。
池全体の調和をひきしめて、見る者の心をとらえて離しません。
芭蕉句碑
文治5年(1189)、泰衡に急襲された義経は、妻子とともに自害しました。
元禄2年(1689)旧5月、この地を訪れた芭蕉は、悲運の義経主従をしのび、次の句をよんでいます。
「夏草や 兵どもが 夢の跡」
毛越寺へのアクセス、行き方歩き方
住所:〒029-4102 岩手県平泉町字大沢58
TEL:0191-46-2331
JR東北本線平泉駅徒歩約12分