南関城の大きな見どころの一つは、「破壊」である。
南関城(なんかんじょう)は、熊本県玉名郡南関町大字関町字城ノ原にある山城。
鷹ノ原城、関ノ城、南の関城とも呼ばれる。
破壊されたほかの城跡には見られない、特徴的な破壊の痕跡とは、石垣を壊してその石材を一つ一つ運んで、空堀の底一面に敷き詰めて、土で覆い隠していることである。
鷹ノ原城は南関町役場の北方にある標高104m、比高40m程の丘陵に築かれている。
地形を見ると東西400m程に渡ってほぼ同じ高さの地形が続いている。
鷹ノ原城の本丸跡には、明治10年(1877)の西南の役で、薩摩軍と戦って死亡した政府軍の将兵77名の墓地があり、登り始めるとすぐに、鷹ノ原城跡への案内柱とともに、官軍墓地への案内柱も立っています。
慶長5年(1600年)加藤正次によって築かれたと云われる。
加藤正次は加藤清正の家臣で大津山城代であったが、慶長5年(1600年)鷹ノ原城を築いて居城とした。
鷹ノ原城の築城にあたっては加藤清正が縄張りしたと伝えられる。
元和元年(1615年)一国一城令によって廃城となった。
南関城は端城。
でも、ここは佐賀の名護屋城とほぼ大きさが同じ。
端城という規模じゃない。
完成したものの、江戸時代に入り、一国一城令が出され、築城からわずか15~16年で壊された。
壊したのは細川忠利の時代
ただ単に壊すだけでなく、ここは石垣の下方まで徹底して壊し、石材は空堀の底一面にびっしり敷き詰め土で覆い隠すという徹底ぶり。
なぜ、ここまで徹底したかというと、先の天草・島原の乱で原城の壊しかたが適当だったため、一揆勢が立て籠ったので、細川忠利は徹底して破壊したと思われる。
遺構
南関町役場の北側に東西にのびる、標高約100mの丘陵に築かれている。
台地を4本の堀切で分断し、東から二の丸、本丸、三の丸が配置されていた。
南麓には細川氏時代の南関御茶屋跡があり、豊前街道が通っていた。
三の丸跡は、ほとんど発掘調査がされていないようで、多くが畑地になっています。
町当局は平成5年に二度目の発掘調査を始め、その後「天下泰平国土安穏」の銘入り鬼瓦などの発見が相次ぎ同10年城址が県史跡に、鬼瓦などは県重要文化財指定となっています。
そして平成20年3月国史跡となりました。
肥後細川藩の御茶屋として唯一、当時の建物が残るこの場所は「釘隠し」など見どころ満載。
七夕や紅葉といった季節のイベントも素敵ですが、静かな和室でゆったり歴史を感じるのも格別。
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南関城へのアクセス、行き方歩き方
熊本県玉名郡南関町関町
産交バス/南関バスセンターより徒歩5分
西鉄バス/南関より徒歩10分
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