かつらぎ町南部、標高約450mの高野山麓に位置する天野の里。
四季折々の田園風景が広がる高原の盆地は、「にほんの里100選」にも選ばれています。
笠田と書いてと書いて「かせだ」と読む。
ここからコミュニティバスで天野の里へ向かう。
まず山裾にひっそりと佇む貧女の一燈お照の墓を目指す。
高野山奥の院に、千年もの間消えることもなく、光り輝いている「貧女の一燈」といわれるものがあります。
その燈を納めた娘「お照」の墓と伝えられる塚が天野にあります。
お照は、槇尾山(まきおさん)のふもと坪井村に捨てられた捨子でした。
16歳の時に養父母と死別し、その菩提を弔うために、自分の髪を売って「貧女の一燈」を献じたもので、長和5年(1016年)の頃でした。
後日、天和2年(1682年)に妙春尼(みょうしゅんに)によりお照の実父母の供養塔が建てられ、貞享5年(1688年)には天野に住む僧浄意(じょうい)によって、女人の苦しみを救うための代受苦(だいじゅく)の行を終えた旨の碑が建てられています。
お照の墓のそばに供養を兼ねて建てられたものと考えられます。
この碑の上10mの所には、お照の実父母の墓と伝えられるものが残されています。
この辺りはまるで山菜の宝庫だ。
春になると桜はもちろん花桃などで天野はピンク色に染まります。
西行が出家し、高野山に暮らして後、康治元年(1142年)、その妻も尼僧となり、この天野の里に庵を建てて移り住んでいます。
西行妻娘宝篋印塔(さいぎょうさいしほうきょういんとう)が残されています。
現存する西行堂は昭和61年の再建です。
解説板より
二基の宝篋印塔は、西行の妻と娘を供養した碑で、和歌山県の文化財に指定されています。
向かって右より二基は、応安5年(1372)建立され、左二基は文安6年(1449)に建立されました。
後方の数多くの五輪は、曽我兄弟の郎党、鬼王・団三郎を供養した碑です。
二人の郎党は、主人の遺骨を高野山に納めた後、天野のこの地で生涯を終えたと伝えられています。
史跡の多い天野の里で時間を多く割くことになる。
コースを外れ、周遊してみるのも良いと思います。
天野は紀ノ川流域から一山隔てた高度450mの高所にありますので、平地より涼しく感じられます。
文学の里歌碑園。
白洲正子は「あんなに美しい田園風景を見たことがない」とか「天の一廓に開けた夢の園」とか「天野に隠居したい」とかそれはもうベタぼめです。
彼女が初めて天野に来たのは昭和40年前後かと思いますが、風景はその当時と大きく変わってはいないかも。
『かくれ里』白洲正子 新潮社
高野山ゆかりの伝説と史跡が残り、古の文化が薫る歴史の里。
随筆家の白洲正子は、著書『かくれ里』の中でこの里についてこう綴っています。
「こんな山の天辺に、田圃があろうとは想像もしなかったが、それはまことに「天野」の名にふさわしい天の一角に開けた広大な野原であった。もしかすると高天原(たかまがはら)も、こういう地形のところをいったのかも知れない」。
また、「ずいぶん方々旅をしたが、こんなに閑でうっとりするような山村を私は知らない」「できることならここに隠居したい。桃源郷とは正にこういう所をいうのだろう」とも。1971年の上梓からは時代が進みましたが、彼女が見て歩いて感じた里は変わりなく残っています。
ゆっくりと彼女の足跡をたどれば、きっと同じ思いを感じるでしょう。
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