滋賀県長浜市木ノ本町に国道303号線が通っており途中、金居原(かねいばら)と呼ばれる集落がある。
少し東に移動するとすぐに岐阜県揖斐川町の県境を跨ぐことになる。
国道303号に入り八草峠を目指していると、右手に「土倉鉱山跡」の看板が目に入る。
頭上に見える橋は現国道303号線の橋梁だ。
かつて国道303号線は八草峠と呼ばれる峠を延々走り続けなければならず、狭隘、軟弱な道路を使って岐阜県と滋賀県を行き来するのはくたびれるの一言に尽きたはずである。
現国道303号線であるバイパスが完成し、八草トンネルが開通してからというもの、その利便性は飛躍的に上昇し、八草峠を通過するのに3分とかからない。
鉱山は杉野川上流で明治末期に採掘が始まった。
昭和30年代には人口が千人を数え、住宅や商店、映画館が並んだ。
しかし、海外から安価な銅が輸入され、採算が合わなくなり閉山した。
近年は散策ツアーが行われる。
閉山から半世紀を経た産業遺産と豊かな自然が、新たな地域資源として価値を見直されている。
往時はトロッコが出入りした坑道の入り口。
朽ちた人工物の隙間から木々が生える。
その姿が人気アニメ映画「天空の城ラピュタ」の舞台を思わせると、インターネット上では「滋賀のラピュタ」とも呼ばれる。
土倉鉱山は土蔵岳と呼ばれる標高1003mほどの山麓に坑道が掘られ、1907年(明治40年)に奥土倉という、現在の鉱山跡よりも若干北にある場所で鉱山が開かれた。
だがその後、度重なる豪雨被害や土砂災害などにより、拠点を南側の出口土倉に移した。
これが現在土倉鉱山跡と一般的に呼ばれている場所である。
1965年(昭和40年)に閉山し、現在では出口土倉に選鉱所跡と坑口が残されている。
採掘した岩石は建物の一番上に運ばれ、薬液の入った沈殿分離槽に入れられた。
浮かんだ銅鉱石を取り出した上で、残りを下段の槽へ運ぶということを繰り返し、残った石は建物の外へ捨てたという。
現在、あらわになっている柱のような構造物は土台で、「その上に木造の建物があった」。
集めた銅鉱石は、空中に張ったワイヤを使い、ロープウエーのようにカゴで運搬した。
「そこらの山頂に鉄塔が建っていて、(約12キロ離れた)木ノ本駅まで運んでいた」という。
「若い人? 来ますよ、なんともいえない衣装をつけて。土日は多くて20~30人くらいかな」。
選鉱場の前を通る国道303号付近には事務所や独身寮があった。
付近では積雪が4メートルに達することもあったため、山麓の小学校まで通えない子供たちのために冬季限定の「分教場」も。
麓には診療所や鉱山会社の幹部が住む一戸建ての社宅があったという。
なお、奥へと歩を進める。
伊吹山地の横山岳と土蔵岳のはざまに位置する杉野川源流部の森にはトチノキやサワグルミの巨木が並ぶほか、さまざまな草も生え、豊かな植生をとどめる。
現在は鉄柵で封鎖されている坑道への入り口。
かつてトロッコが走ったレールが見える。
坑道入口を封印する鉄格子は真ん中が鍵付きの扉となっていて、鉱山関係者が点検をする際に使用すると思われる。
中は水があふれ、右端からは鉱水が勢い良く流れ出して暗渠を通し杉野川へ注がれていた。
かつて愛媛県新居浜市の別子銅山跡を訪問したことがある。
土倉鉱山跡よも遥かに大規模で観光地として再開発され、「東洋のマチュピチュ」とよばれ、多くの観光客を集めている。
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