江之子島は百間堀川・木津川・江戸堀川に挟まれていた島で、東は百間堀川を挟んで京町堀・靱・薩摩堀、南は木津川を挟んで松島、西は木津川を挟んで本田・川口、北は江戸堀川を挟んで江戸堀に隣接していたが、現在は百間堀川と江戸堀川は埋め立てられている。
もとは淀川の河口に形成された難波八十島(なにわのやそしま)のひとつで、名称の由来には「難波江の小島」からの転訛説と、「狗子島」「犬子島」からの転訛説がある。
中国総領事館
正式名は中華人民共和国駐大阪総領事館で、中国と日本・大阪の窓口となっています。
旅券査証の発行や政治経済交流が主ですが、近畿と中国・四国を管轄としています。
川口居留地の貿易では、華商の手を借りることも多く、こうした誼から昭和60年(1985)、豊中市千里から当地に移転しました。
雑喉場(ざこば)魚市場跡
雑喉場市場跡は延宝年間(1673~81)に鷺島の生魚市場の名称を雑喉場と改め、大坂三郷の中央部に所在していた魚市場を移転させて以来、昭和六年(1931)に市営の中央卸売市場に統合されるまで、実に二百五十年以上ものあいだ大阪における魚類取引の中心をなしたところである。
堂島米市場・天満青物市場とならび、近世大坂の三大市場と称され、安永元年(1772)問屋株が免許されると、独 占 的 地 位 が 認 めら れ ました 。
昭 和 6 年(1931) 、大阪市中央卸売市場に吸収合併されました。
雑喉場橋跡
雑喉場市場の百間堀川に架かっていた橋。
昆布佃煮の老舗「神宗(かんそう)」は、かつて雑喉場橋東詰で商いを営んでいました。
神宗・淀屋橋店には当時の雑喉場商人の気質を守りたいと、雑喉場橋の親柱が、今でも保存されています。
天満宮神幸御上陸地碑
天神祭のクライマックス、船渡御は、戦後の地盤沈下によって船が橋をくぐれなくなったため、今大川上流に向いますが、明治期から昭和初期までの渡御コースは、大川から堂島川、木津川へと進み、木津川橋下手の江之子島に上陸後、陸路、松島の天満宮行宮の御旅所を目指す船渡御、陸渡御列だったようです。
木津川橋碑
慶応4年(1868)に架けられました。
外国人の居留地が建設された川口と、大阪の行政の中心地だった江之子島を結んだ橋は、大阪と海外を結ぶ架け橋にもなりました。
1874年(明治7年)に大阪府庁舎(2代目)が江之子島上之町に、1893年(明治26年)に西区庁舎(3代目)が江之子島東之町に、市制特例廃止後の1899年(明治32年)に大阪市庁舎(初代)が江之子島上之町に置かれ、当時の江之子島は地方行政の中心地となっていた。
なお、大阪市庁舎は1912年(明治45年)に堂島へ、大阪府庁舎は1926年(大正15年)に大手前へ、西区庁舎は1934年(昭和9年)に西長堀へ移転している。
大阪府庁舎跡には1929年(昭和4年)に大阪府工業奨励館(現・大阪府立産業技術総合研究所)が置かれたが、こちらも1996年(平成8年)に和泉市へ移転した。
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