松風閣庭園-金沢の人たちも知らなかったミニ兼六園

北陸

松風閣庭園は、1968年(昭和43年)に個人の所有から北陸放送の所有となった後も、一般市民の目に触れることはありませんでした。

庭園が一般公開されるようになったのは鈴木大拙館がオープンした2011年のことです。

加賀藩の筆頭家老職本多家は、現在の出羽町、本多町、下本多町の一帯に上、中、下の屋敷を持っていた。

上屋敷は当主を中心に家臣が詰める公の場で小立野段丘の上、中屋敷は当主の子供や隠居した人が住みその直下にあった。
家臣の住む町内である下屋敷は中屋敷を取り囲んでいた。

いわば本多五万石の城下町である。
上-中屋敷をつなぐ高低差10mにいまは廃道となっているつづら折りの坂道があって、江戸期の遺構として復元された。

散策ルートの途中には陶芸工房があります。

この工房は『北陶』という陶芸の会社が所有する工房で、工房の代表である飯田雪峰氏は金沢市の文化活動賞を受賞している著名な陶芸家です。

松風閣庭園は江戸時代初期に、古沼と自然林を生かして作庭された庭園で、霞ヶ池の周辺には多くの大木が植生し、本多の森と一体の樹林を形成しています。

この豊かな樹林を背景にして、蓬莱島を浮かべる霞ヶ池は、奥行きと広がりを感じさせ、静寂で深遠な庭園空間を構成しています。

また、旧加賀八家本多家下屋敷跡に位置する庭園は、本多家ゆかりの松風閣が移築され、かつて辰巳用水から霞ヶ関に導水されていた水路跡を遺し、旧加賀八家筆頭本多家の威光を今に伝えています。

元和元年(1615)、本多政重が3代藩主利常から現在地の周辺一帯約10万坪を与えられ、下屋敷地として本多家家臣団が居住する区域となりました。

本多家2代政長は茶人の金森宗和と親交があり、宗和の子方氏が寛永2年(1625)宗和の代人として加賀藩に仕えたことから、その指導を受けて作庭したものと推定されます。

木の影に覆われている薄暗い散策ルートから、池の対岸を見渡すと木々の緑に太陽が燦々と降り注いでおり、明と暗のコントラストが心に静寂をもたらしてくれます。

明治19年(1886)に元本多家上屋敷から移築された旧広坂御広式御対面所が、明治40年(1907)現在地に再移築された際に「松風閣」と改称され、庭園も松風閣庭園と呼ばれるようになりました。

北陸放送MROの社屋を通り抜けることができないことから、鈴木大拙館との連絡口から入園することになります。なお、入園は無料です。

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