福島区は大阪大空襲の被害をあまり受けなかった、区の7割が非戦災地域。
今では近代的な街に生まれ変わっているが、商店街の奥の奥は戦後のどさくさ横丁「地獄谷」、伝説のストリッパー一条さゆりの引退公演が行われた吉野ミュージック劇場が存在していた町でもある。
地獄谷、こんなディープゾーンがあったとは!
リバーガーデン福島 こもれびの丘
14,998㎡の広大な敷地を活かし大阪市中心6区最のガーデン。
アテナ塔
人々の幸せと森を守るアテナ神。
ここに住まう方、地域の方々全てが幸せに暮らせるよう遺跡に願いを込めました。
アテナ神の聖鳥である知恵の鳥フクロウも共に見守っています。
野田阪神駅前にはトヨタやイオンモールなどが並ぶ。
イオンとファッション・グルメなど多彩な専門店を有するショッピングセンター、ウイステ。
ウイステとは、植物の「フジ」(Wisteria)のこと。
15世紀ごろの当地周辺は「野田藤(ノダフジ)」と呼ばれるフジが美しく咲き乱れ、日本中に花の名所として知られていた(現在、福島区の花はフジである)。
このことから、新たに開業したショッピングセンターの愛称に、当地ゆかりの植物であるフジにちなんだ名が付けられた。
阪神本線の高架下、「野田阪神機械工具街」という看板が掲げられている。
この界隈は松下幸之助が電気器具工場を始めた地だけのことはあって、いまだに町工場の多い一帯だ。
松下幸之助創業の地記念碑(大開公園)
1918年(大正7年)松下幸之助23歳の時に、大阪市北区西野田大開町844番地(現在の大開二丁目)に借家を借り、妻むめの、義弟井植歳男(三洋電機創業者、当時15歳)の3人で松下電気器具製作所を創立。
1922年(大正11年)創業の家が手狭になったことから、西野田大開町896番地(現在の大開二丁目)に100坪余りの新工場(第一次本店・工場)を竣工した。
松下幸之助は終生この地に本籍を置いていた。
松下幸之助さんが誕生した、和歌山(紀州)を代表する石といえば、緑泥片岩(りょくでいへいがん)であり、阪南・和歌山から四国一帯にかけ一つに繋がる地層の中にある約1億年前の堆積岩で、緑泥岩を含んでいるため、青緑色に冴え、色があせず、景岩、石碑、石垣に用いられています。
築城の名人・藤堂高虎が造った和歌山城の石垣をはじめ、松下幸之助氏生家跡の松下公園に建立された「松下幸之助君 生誕の地」(湯川秀樹氏 揮毫)などに使用されています。
和歌山周辺では昭和初期から採掘や採石が禁止され、現在は四国の阿波、伊予などのみで販売され、この緑泥片岩の石碑も、伊予西条市周辺の川から採石された自然石で、大きさ、形、色、艶など一番良いものを現地で探し当てました。
題字「松下幸之助創業の地」は、松下幸之助氏のご長女、松下幸子様の揮毫により刻み込まれました。
昭和7年(1932)の創業記念式典で、水道水のように大量の製品をどこでも安価に供給するのが産業人の使命であるという有名な「水道哲学」を説きました。
記念碑は直筆の「道」の文字が刻まれています。
「松下幸之助 創業の地」由来
松下幸之助氏:1894.11.27 ~ 1989.4.27 和歌山県海草郡和佐村出身。
この地大開は、松下電器産業株式会社の創業者 松下幸之助氏が大正7年(1918)3月7日、同社の前身「松下電器器具製作所」を創立した創業の地です。
のちに経営の神様と呼ばれ世界中にその名を馳せた松下幸之助氏は23歳の若さで配線器具の製造・販売を始め、昭和8年(1933)に門真市に移転するまでの15年余をこの地で過ごし、事業の進展とともに逞しく大開から巣立っていきました。
松下幸之助氏は大開の人情や風土に育まれ、大開小学校の保護者会会長や大正14年(1925)には区会議員に当選するなど、文字どおり大開の一員として充実した日々を過ごしました。
松下電器の業容の発展に伴い移転を余儀なくされたものの、終生本籍をおいていたことが物語るように大開きは同氏ときわめてゆかりの深い土地であります。
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