見地の人もびっくりの突然の雪です。
雪と桜が同時に見れるというハプニングに見舞われた。
福井からえちぜん鉄道に乗車、途中からちらちらと積雪が見られた、ところが勝山に着いてみるとなんと白銀の世界ではないか。
参道にはほとんど人影もなく静かな雪の世界。
この坂を精進坂という、これより上は魚類の持ち込みが禁止だった。
境内は1935年(昭和10年)「白山平泉寺城跡」として国の史跡に指定された。
その後、1997年(平成9年)に史跡の指定地域が追加され、指定名称が「白山平泉寺旧境内」に変更された 。
旧玄成院(別当・平泉宮司邸)庭園は、1930年(昭和5年)に国の名勝に指定された。
二の鳥居が霞んで見える、幻想の世界です。
額の上に屋根があるのは神仏習合の名残、1777年のもの。
境内の道路の大半は石畳道で、石組みの側溝など、技術的にも当時の日本の最先端だったと考えられています。
振り返ると一の鳥居がカスミの彼方に。
拝殿が見鵜てきた。
現在の建物は江戸時代の終わりに建てられたもの。
かつては三十三間拝殿という大きな建物が建っていた。
今は、その柱を支えていた礎石が残っています。
拝殿の周辺は、樹齢数百年の杉林の下に、青々とした苔がじゅうたんを敷きつめたように広がっています。
しかし、今日は苔は雪の下です、一面の銀世界です。
以前の訪問記、苔がきれいです。
日本一の苔を見に 平泉寺白山神社にやってきました
白山の登拝口に建てられた平泉寺は、古代から中世後期にかけて白山信仰の拠点寺院とし … 続きを読む →
天正2年(1574年)当時、織田信長方に仕えていた白山平泉寺は、大阪の本願寺方の一向一揆に攻められ、全山が焼失。
10年後に一部再興されたが、境内はもとの10分の1程度にすぎず、多くの坊院跡は山林や田畑の下に埋もれました。
本社は、寛政7年(1795)、福井藩主の寄進で建てられた。
本社の向かって右手には別山社、左手には越南知社があり、白山三山の神をおまつりしています。
彼方に三宮が見える。
白山神社境内の一番奥に位置する社で、この後から白山への登拝道である越前禅定道がはじまります。
三宮の手前には楠正成の墓があり、室町時代の石塔が建っています。
鎌倉時代の初めには、源頼朝に追われた義経主従が、山伏姿に姿を変えて奥州に落ちる途中で平泉寺に立ち寄ったといわれ、義経や弁慶に関する伝説も残っている。
御手洗池(みたらしいけ)は、養老元(717)年、泰澄が白山への道中に発見した泉。
現れた女神に、白山へと登ってくるようにお告げを受けたとか。
平泉寺の名前の由来にもなっています。
国史跡白山平泉寺旧境内は、古くから信仰の対象であった霊峰白山(標高2,702メートル)の越前側の拠点として、養老元年(717年)に泰澄によって開かれたと言われています。
先ほどから雪が激しく降っています。
幹が3つに分かれた御神木の杉を見ながら上を目指す。
中世、平泉寺は悪僧の巣窟でもあった。
貴族たちから寄進された所領が多く、寺は富裕で・・・・・・
街道をゆく18 越前の諸道
帰りの道をたどっている。
降りがいよいよ激しくなり振り返っても二の鳥居が見え隠れする。
雪の中、女性の二人連れが参道を上っていく。
あまりの激しい雪に二人は大丈夫だろうかと他人事ながら心配になる。
白山平泉寺歴史探遊館 「まほろば」でバス待ち。
「まほろば」は史跡平泉寺や白山の歴史・自然・文化に関することを展示紹介しています。
また、文化財を活かした学習・交流・地域づくりの拠点施設ともなっています。
降りしきる雪の中に満開の桜、めったに拝めない世界です。
関連記事