春日大社の社紋は「下り藤」。
藤は境内随所に古くから自生し、藤原氏ゆかりの藤ということもあり、次第に定紋化された。
御巫(みかんこ)の簪又、若宮おん祭の「日の使」の冠にも藤の造花が見られます。
とりわけ御本社の「砂ずりの藤」は、名木として知られます。
藤の花を敬愛し、観賞するための庭園として萬葉植物園内の南庭にも20品種、 約200本もの藤の木が植栽される「 藤の園 」が設けられている。
藤の木の植栽は、立ち木作りの形式をとっており、藤棚のように見あげるのではなく目線で花が観賞でき、 また、花が外向きに咲くことで常に日の光を浴びて美しく見える、 まさに自然と一体化した風光優美な庭園となっている。
藤の開花期間は気候により多少前後しますが、通常ですと4月の末頃から5月上旬頃まで。
早咲きの開花から遅咲きが終わるまで約2週間しかなく、すべての藤が一斉に咲き揃うことはありません。
毎年ゴールデンウィーク頃に花が満開になることが多く、大層な人出となります。
唯一園内に香りを広げる中国の「麝香藤(じゃこうふじ)」やピンク色の濃い「昭和紅藤」など珍しい藤が多い時期は早咲きの頃
長い房の藤や「八重黒龍藤」などの咲き始めるのは、期間の中頃~終盤になります。
万葉集ではフジを詠んだ歌は26首あります。サクラの46首と比べても見劣りしない数です。
万葉の人々にとって、フジはサクラと並んで春の息吹を感じる花として、なじみの深いものだったのでしょう。
「 かくしてぞ 人は死ぬといふ 藤波の
ただ一目のみ 見し人ゆゑに 」
巻12-3075 作者未詳
( こんなふうに恋ひ焦がれて、あげくの果てに人は死ぬものだという。
見事な藤のような美しい人を、ただ一目見ただけなのに )
藤を女性の美しさに譬えた万葉唯一の歌です。
艶やかな女性に一目ぼれして、「もう焦がれ死にしてしまいそうだ」と悶々としている男です。
「 磯城島(しきしま)の 大和の国に 人さはに 満ちてあれども
藤波の 思ひもとほり
若草の 思ひつきにし
君が目に 恋ひや 明かさむ
長きこの夜を 」
巻13-3248 (既出) 作者未詳
( この磯城島の大和の国に 人はたくさん満ちあふれていますが、
藤の蔦が絡みつくように 私の想いがあなたにからみつき、
若草のように瑞々しいあなたに 心が寄り付き、
ただ ただ、お逢いしたいと、そればかり思い焦がれて
まんじりともせず、この長い夜を明かすことになるのでしょうか )
「 春へ咲く 藤の末葉(うらは)の うら安に
さ寝(ぬ)る夜ぞなき 子ろをし思(も)へば 」
巻14-3504 作者未詳 東歌
( 春の盛りの今 咲き誇る藤の花。
その藤を覆う末葉ではないが、心(うら)安らかに寝る夜など一夜とてない。
あの子のことばかり思うと )
恋しけば、形見にせむと、我がやどに、植ゑし藤波、今咲きにけり
第八巻: 1471 山部赤人
恋しいので形見にしようと庭先に植えた藤が、今、咲いています。
我が宿(やど)の、時じき藤の、めづらしく、今も見てしか、妹(いも)が笑(ゑ)まひを
第八巻 大伴家持
この歌の題詞には、大伴家持(おおとものやかもち)が季節はずれの藤の花と萩の紅葉を折り取って、坂上大嬢(さかのうえのだいじょう)に贈った歌、とあります。
フジの花に関連して井沢元彦氏の説を紹介する。
日本の歴史を通史で考えるときにはわかりやすい論法だ。
白村江の戦いの辺りからずっと見ていくと彼らが何をしたかがよくわかる。
藤原氏の行動原理のシンボル「藤の花」
藤原氏の原理とは何か?
言うまでもない、「藤原氏は日本の寄生虫である」というのが日本史の原理である以上、藤原氏の原理とは「決して天皇(日本の王)にならず、あくまで天皇家に対する寄生虫の立場を守る」ということになる。
そして、もちろんこれは膝原氏自身も自覚していたのである。
藤原氏のシンボルは「藤の花」である。
藤原氏の氏神(守護神)である奈良の春日大社の神紋も「下がり藤」だ。
藤原氏のシンボルが「藤」であることに注意しなければならない、と述べたのは梅原猛
氏たった。
これは卓見である。
なぜなら藤という植物は次のような性質を持つからだ。
他物にがらんで成長するのが、藤なのである。
つまり、「からみつくための他物」が無いと籐は生きられないのだ。
あくまで「他物」を「主」とし、自らは「従」となる。
これが藤原氏の行動原理である。
その行動原理を、まさに「藤」というシンボルは見事に体現しているのだ。
もっとも史料至上主義者たちは、そんなことは偶然だと言うだろう。
途中略・・・・・
これれはまさに、宿主と寄生虫の関係そのものではないか。
寄生虫(藤原氏)が本来宿主(日本国)に行くべき養分(税)を途中で吸い取ってしまう。
そのことによって宿主はやせ衰え死にかけるのだが、寄生虫は宿主がどうなるうと知ったことではない。
あくまで自分のことだけを考え養分を吸いつくす。
平安末期の政治というのは、まさにこのようなものであった。
藤原氏が荘園というカラクリで肥え太っても、それを少しでも国家に還元したのなら、私も彼等を「寄生虫」とまでは言わない。
彼らが不正な手段で築いた有り余る財力を、たとえば国家治安向上のために使うとか、羅城門等都の施設を修理するとか、そういうことに使ったのならいい。
だが、彼等はそういうことはまったくせずに自分たちの豪華な寺や別荘を建てるためには湯水のように消費した。
そればかりではない。
藤原摂関政治の頂点を極めた藤原道長は法成寺という自分の寺を建てる時に、羅城門の礎石を盗むことすらしているのだ。
これは当時の記録(『小右記』)に堂々と書かれてある。
これは現代にたとえれば、首相が別荘を建てるために国会議事堂をこわしてその石材を使うような-
いや、もうやめよう。それは現代の政治家たちに失礼だ。
道長ら藤原摂関政治の担い手たちはまさに現代の政治家以上に「自分のことしか考えていない」とんでもない奴等だったのだ。
平将門はこういうデタラメな政治体制に怒ったのである。
だから反乱というよりは、むしろ革命を起こそうとしたのだ。
しかし、将門を正しく評価するためには、当時の藤原摂関体制という「巨悪」に触れなければいけない。
そこで御用史家たちは将門を犬悪人にしたのだ。
ところで、およそ三世紀のちに、将門の果たせなかった夢を実現した男がいた。
それが鎌倉学府の開設者源頼朝なのである。
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