水車の流れに架けた橋で夕暮れに恋人を待ち続ける心情を詠んだ「小板橋」を思いながら、石上露子の足跡を追ってみた
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富田林八人衆の筆頭年寄で、「わたや」と号する。
約450年前、富田林寺内町の造営から関わり、当初は木綿問屋を営み、その後、江戸時代中期に酒造業を始めて、大いに栄えて河内酒造業の肝いり役を務めた大商家。
明治中期に酒税(造石税)導入や灘・伏見などの大規模生産地との競争力不足などが理由で酒造業を廃業した。
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石上露子(いそのかみつゆこ、1882年ー1959年) 本名杉山孝。明治15年(1882年)、南河内一の大地主・杉山家の長女として生まれた
幼時から古典や漢籍、琴などに親しみ、二十歳頃から『明星』などに短歌,詩、小説などを発表した。
雅号は夕ちどり。
古典の教養をもとに、華麗さの中に深い憂いを漂わせた作風で評価され、富田林にいながら明治期の中央歌壇で注目を集め、明治36年に『新詩社』(明星発行の結社)の社友となり、与謝野晶子、山川登美子、茅野雅子、玉野花子とともに「新詩社の五才媛」と称された。
旧家の家督を継ぐ運命のため、思いこがれた初恋の人に対するかなわぬ思いを詠んだ“小板橋”(下記)は絶唱と評され、石上露子の名を不朽のものにした。
二十六歳で父親が決めた相手と結婚し、夫からは作歌活動を禁じられたため、文学界から身を引いた。
後年に「明治美人伝」で紹介され、広く人と作品が知られるようになった。
二人の息子をもうけたが、長男が病死、二男は自殺し、昭和34年(1959年)に七十八歳で死去した。
(注: 富田林市ホームページなどから引用・抜粋しています。)
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結婚前の石上露子、清楚な美しさが光る。
近代文学が専門の元四天王寺大学教授、宮本正章さん(75)は「露子は当時、神山薫という進歩的な家庭教師の引率で東北や東京に旅行もしている。
旧家の誇りと近代的自我の両方を持ち合わせていた人だったのではないか」。
正平とは、東京旅行の際、神山の紹介で知り合った。
正平も明治33年には杉山家を訪問している。
しかし結局、露子は家のため、別の男性と結婚する。
その苦悩は絶唱となって歌に昇華された。
〈黒髪の千すぢのみだれ風さかひあゝ焦熱の火中をぞ行く〉
露子の生き方は、意志を貫き、与謝野鉄幹との恋に走った同時代の歌人、与謝野晶子とは対照的だ。
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大正天皇のご成婚の日に、石上露子さんは、家庭教師の神山薫さん、それに自らの妹と一緒に、都合6人で東京見物に出かけている。
18才の時だ。
その時、投宿したのが、神山薫さんの親戚筋の家で、同じく、そこに遠い親戚にあたる、初恋の人 長田正平さんが日々、通ってきたのだ。
その時、ほのかな恋心が、お互いに芽生えたのであろう。
赤い糸で結ばれた美男美女のカップルだ。
以降、2人は、密やかながらも恋心を温め続け、それは、石上露子さんが、図らずも拒み続けた養子を迎え結婚する26才まで続いたのではないかと思われる。
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自らの恋歌と名前を着物の裾に織り込み、初恋の人に贈るという、ある意味、悲愴な「愛の告白」の形だったのではないか?
まさに幼い時から、源氏物語に親しんでいたという石上露子さんにとって、最も相応しい愛の告白のあり方だったのだろう。
かくて、石上露子さんは、「偲ぶ恋」に決着をつけるべく決意するのである。
この露子ゆかりの訪問着を見ていると、ふとこれがその着物だったのではと考えてしまった。
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旧杉山家住宅には露子が愛したアールヌーボー様式の螺旋階段が残されている
西洋式な小さな飴色の階段は純和風家屋にあって奇妙な調和を保っている。
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本町公園にある顕彰碑。
石上露子 代表作「小板橋」「明治40年明星12月号掲載」
旧家の家督を継ぐ運命のため、思いこがれた初恋の人に対するかなわぬ思いを詠んだ“小板橋”は絶唱と評され、石上露子の名を不朽のものにした。
ゆきずりのわが小板橋
しらしらと一枝のうばら
いづこより流れか寄りし
君まつと踏みし夕べに
いひしらず沁みて匂ひき
今はとて思いに病みて
君が名も夢も捨てむと
なげきつつ夕わたれば
ああ、うばらあともとどめず
小板橋ひとりゆらめ
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石上露子歌碑
「みいくさにこよひ誰が死ぬさびしみと髪ふく風の行方見まもる」
1904年(明治37年)2月、世界の列強ロシアと日本が国運を賭けての戦争が始まった。
日露戦争である。
同年5月金州、南山の攻略は約1ヶ月余りにわたり激しい戦いが展開された。
この戦いに大阪第四師団が参加、富田林及びその周辺の村落にも多くの戦死者を出した。
この時、戦死者とその遺族の身の上を按じ、国の行末を思い、言い知れぬ深い不安と悲しみにおそわれて詠まれたのがこの短歌で、明治37年7月短歌誌の明星に夕ちどりの名で発表せられた
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晩年の露子は、与謝野晶子のすすめもあり、「明星」の後続誌「冬柏」に復帰している。
しかし2人の息子の死もあり、目立った活動はなく、ただひっそりと生涯を閉じた。
墓所は杉山家の墓地とは別に、次男の好彦さんが愛したという、平石の高貴寺に2人の息子と一緒に眠っている。
明治期の女流歌人、石上露子の没後50年を記念し、命日に当たる2009年10月8日に歌碑除幕式が行われた。
露子は最晩年、次のような歌を残しました。
現しょうの
ゆめよりさめ七十路の
いまはしづかに
暮るゝまたまし
いしかはの
さゞれの上のゆふちどり わが名によそへ
人もこひしか
人の世の
旅ぢのはての夕づく日 あやしきまでも
胸にしむかな
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本杉山家の後継者で歌人の石上露子(杉山タカ)はこの南杉山の敷地に建てた自身の山荘(恵日庵)で詩歌を楽しみ暮らしておりました。
この恵日庵から続くつづら折りの小道を下った辺りには露子の芸術の舞台となった小川や水車がありました。
水車の流れに架けた橋で夕暮れに恋人を待ち続ける心情を詠んだ「小板橋」は「明星」等で発表されその高い芸術性において賞賛されました。(勝間家住宅保存委員会)
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土間左手の釜屋と右手の下店(しもみせ)
釜屋(左手奥)
南河内地方の典型的な農家風建築様式を残しており、土間(釜屋、正面左手奥)の梁は、「煙返しの梁」と呼ばれています。
梁の高さを低く設けることで、煙が土間から外へ吹き流れることを防ぐ構造です。
現在、「下店」は受付になっている。
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数奇屋風建築 大床の間
障壁画「老松図」は文化文政の頃、狩野杏山守明筆
大床の間は能舞台を模して造られた。
柱は細くなり京風の優雅な建築様式を見せている。
二間幅の大床の床板は欅の一枚板を2枚並べている。
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大床の間 千鳥が舞う様子を描いた襖絵
石上露子のもうひとつのペンネーム「夕千鳥」の名前は、この絵の題材に由来しているとも言われている。
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欄間彫刻
薩摩杉を用いた菊の透かし彫り
(狩野派 大岡春卜作)
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座敷(障壁画 狩野杏山守明筆の山水画)
「床刺し」の珍しい天井
(天板が床の間に直角に向いている)
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格子の間に掲げられた墨蹟(山岡鉄舟筆)
右から「生前富貴学頭露身後風流怕上花」
明治時代に山岡鉄舟が杉山家を訪ねて、「杉山家の為(左端)」に書き残した作品。
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「奥座敷」の前にある「茶室」。
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雨落溝や飛び石が、日本庭園らしい良い景色を造っています。
向こうの建物は土蔵。
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大太鼓
直径90cm。
文化13(1816)年に作られたもの。
胴の内側には張り紙や墨書きが有り、400人近い名前が書かれている。
それらの人達とこの太鼓の関係は分かっていないとのこと。
調査の結果、もとは渡辺村(現大阪府浪速区)の浄土真宗の寺院・徳浄寺に有ったらしいが、何故、それが杉山家に残されていたのか分かっていないとのこと。
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4層の大屋根が見事です。
虫籠(むしこ)窓に煙出しが見えます。
虫籠窓は屋根裏部屋の明り取りと、風通しのため。
煙出しはかまどの煙を出すために作られたもの。
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ダイドコの間に掛けられている槍 。
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角屋(つのや)
庭に向かって母屋から角のように突き出した事に因む
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小道と水路。
ずーと奥に祠もあります。
手入れは行き届き、風情さえ感じさせます。
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2階は展示室になっている。
旧杉山家は富田林市が買い取り、文化財保存と一般公開のためにかつて解体(復元)修理が行われた。
その時の模様が写真のパネルになっている。↓
露子は、保守的になりがちな旧家の跡取り娘でありながら、晩年は日本共産党の理解者となり、1956 年の春に日本共産党河南地区委員会に、家の納屋の一部を無償で開放し、青年達がここでマルクス主義を学習したり、労働歌を歌っていたという。
露子亡き後、荒れるままだった杉山家の建物を解体修理し、街並み保存の中心的存在としてよみがえらせる先頭にたったのが日本共産党市議団でした。
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庭から見上げた鬼瓦。
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裏手の蔵には、昔の生活用品や石上露子の愛用品などが展示されています。
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蔵の中にはことが、これも露子の愛用品か。
石上露子(本名:杉山タカ)の生涯
明治15年6月杉山団郎の長女として生まれる。
母ナミは祖父長一郎の実家の兄河澄雄次郎の長女で、団郎とはいとこ。
小学校時代は父の養生のため船場に住む。
父の病気が治ってからも、教育のためそこの留まる。
小学校4年の時に富田林に戻る。
旧家の長女として、京、大阪の一流の師匠について琴や和歌、日本画、上方舞など諸芸に精進し、何れも相当高い水準にあったとのこと。
修行は薙刀や鎖鎌にまで及んだという。
13歳で実母と生別。
継祖母、継母に囲まれて、激しい気性の露子と葛藤が生じる。
16歳の時、女性家庭教師・神山薫の指導を受けることになる。
18歳の時、この人に連れられて東北地方に旅行し、東京に半年ばかり滞在。
この折に神山薫の縁戚にあたる長田(おさだ)家の長男で一橋高商の学生であった正平と出会う。
二人は互いに心を惹かれるようになるが、それを告白することはなかった。
(当時、家督相続者どうしの婚姻は難しかった。)正平はその後、カナダに渡り、51歳で亡くなるが、生涯独身であった。
明治36年、21歳の時、与謝野鉄幹が主宰する新詩社の社友になり、同社の雑誌「明星」に短歌三首を寄稿する
。明治40年、「明星」に「ゆふちどり」の筆名で掲載された「小板橋」は、詩歌を愛する人々の心に長く残ることになる。
明治40年12月、旧家の重圧に抗し切れず、意に添わぬ婚礼の席につくこととなる。
奈良県磯城郡川西村の片山家から婿養子縁組、夫荘平を迎える。
タカ26歳、荘平29歳であった。(片山家は郡山藩の大庄屋を務め、苗字帯刀を許された家柄、大地主でもある。)
夫荘平は、自らは絵筆もとり芸術の境地を知らない人ではなかったが、妻の文筆活動には理解なく極度にこれを嫌った。
勝手に新詩社への脱退届を書き、婦女新聞社への購読停止を通告する。
社会との交渉を断たれ、長く不幸な結婚生活を送る身となる。(夫の器量が妻に及ばなかったからであろう。)
やがて明治43年に長男善郎、44年に長女礼子(生後1ヶ月で亡くなる)、大正4年に次男良彦が生まれる。
長男善郎(京大から大学院に進む)家督を継ぐが結核に冒され闘病生活の後、隠居し32歳で死亡。
次男良彦(三高から東大)兄の隠居により兄の養子となり、家督を相続。
太平洋戦争が始まり、航空兵として北支へと召集される。
敗戦後、住吉高校で社会科の講師を務める。
明るく活動的な良彦氏であったが、飛行士中もノイローゼの症状が出て、周囲の者の知るところとなる。
42歳で死亡(自殺)。
二人の子供がいる。
明治44年、父団郎の死後(享年55歳)、戸主となった荘平は親戚や別家の反対を押し切って独断で一家の経営に当たったが、株式投機で第一次大戦後の大暴落に会い、全てを投げ出し家事を顧みない人となる。
強度のノイローゼで病院から浜寺へと逃避。(株投機の失敗で土地は三分の一になる。明治33年の杉山家の所有地 61町5反;約18.5万坪、内94%は田畑)戸主を離別することは、当時法律上不可能なので、戸籍上夫婦であるという状態であった。
昭和6年から昭和20年まで夫を逃れて京都へ、京大と三高の二児に添うての仮住まい。
この年から「明星」の後身「冬柏(とうはく)」に短歌の寄稿を始める。(昭和6年4月、長男が京大に、次男が三高に入学) 晩年の露子は、富田林の生家で老女中とふたりで暮らす。
1959年(昭和34年)10月8日、脳出血で死去。享年78。墓所は高貴寺。
(じないまちボランティアガイド・長谷英男氏資料から引用させて頂きました。)
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