日本書紀 斉明朝の奇妙な記述

奈良県

蘇我氏暗殺の現場に居合わせた女帝については余り芳しくない記述が多く、例えば正史の書記が、重祚した年の夏五月条と七年五月条でそれぞれ、

庚午の朔に、空中にして龍に乗れる者あり。貌、唐人に似たり。
青き油の笠を着て、葛城嶺より馳せて生駒山に隠れぬ。
午の時に至りて、住之江の松嶺の上より、西に向かいて馳せ去ぬ。

天皇、朝倉橘広庭宮に遷りて居ます。
この時に、朝倉社の木を斬り除いて、この宮を作る故に、神忿(いか)りて殿を壊つ。
また宮の中に鬼火見れぬ。これによりて大舎人および諸々の近侍、病みて死れる者衆し。

と伝え、亡くなった翌月の八月条でも、重ねて、

皇太子(中大兄皇子)、天皇の喪を奉従りて、還りて岩瀬宮に至る。
この夕に、朝倉山の上に鬼ありて、大笠を着て、喪の儀を臨み見る。衆、みな磋怪(あやし)ぶ。

宝皇女の生涯を見てみますと、歴史が二転・三転する中であまり自分の意志ではない中で皇位に付けられ、あまりバックアップの無い中、最初の皇位の時は蘇我入鹿だけを頼りに、二度目の皇位の時は息子の中大兄だけを頼りに政務を取るという、非常に不安定・不本意な皇位でした。

蘇我入鹿は皇極天皇の愛人であったという説もあります。
すると乙巳の変で天皇の前で中大兄が言った言葉は、「自分の愛人と自分の子供とどちらを取るか」という問いとも取れます。

そういう質問を息子から浴びせられ、答えずにその場を離れて入鹿を見殺しにした所など、宝皇女の性格が現れているように思います。

なお、宝皇女が最初に産んだ子供漢皇子が、実は大海人皇子ではないか、という説があるようです。

ところが、剣で斬りつけられた蘇我入鹿が、斬りつけた中大兄皇子ではなく、皇極天皇に向かって「自分に何の罪があるのか」と問いかけているのだ。

ここに入鹿の心情が隠されているのではないか。
入鹿が女帝に向かって問いただすことが、そもそも女帝が首謀者と感じていたからではないかという。

だからこそ、入鹿にとっては「あなた(=皇極天皇)は、これ(=暗殺の謀略)をすべて知っているのではないですか?」との思いだったに違いない。

このあたりは謎だが、これが事実に近いとすると、入鹿暗殺は中大兄皇子と中臣鎌足に引きずり込まれてではなく、皇極天皇の意思が働いていたということになり、何か不気味さが漂ってくる思いがする。

酒船石。
この丘の下、北側に亀形石造物があるが、これらと合わせて、酒船石遺跡という。
 
その後、調査が続くにつれて、酒船石のある竹藪の丘陵と一体のものであることが裏付けられている。

丘陵そのものは、わざわざ山を削り、その後、版築土(20cm×30cm)で積み上げた人工の丘であった。
丘のコーナーの石も発掘され、四重の石垣で取り囲み、周囲総延長800mある丘となった。

日本書紀斉 明天皇二年条には「宮の東の山に石を累(かさ)ねて垣とす」とあり記事そのままである。
3万人の人夫を動員して運河を堀り、舟200隻で石上山(いそのかみやま・奈良県天理市)の石を運んだ。

石材は花崗岩。東西の長さ5.5m、南北約2.3m、厚さ約1m。西側に約5.5度傾いた形で置かれている

畑の中を通る遊歩道の脇の高台には「鬼の俎」が、遊歩道を挟んだ高台の麓に「鬼の雪隠」がある。

両者は直線距離にして数十メートル離れているが、元は1つの古墳の石室だったものが、盛土が無くなったうえ、二つに分かれてしまったものである。

元々は繰り抜かれた横口式石槨の石室(鬼の雪隠)とその底石(鬼の俎)であった。

「鬼の俎」

亀石は言い伝えによれば、奈良盆地一帯が湖であった頃、対岸の当麻(たいま)のヘビと川原のナマズの争いの結果、当麻に水を吸い取られ、川原あたりは干上がってしまい、湖の亀はみんな死んでしまった。

亀を哀れに思った村人たちは、「亀石」を造って亀の供養をしたという。

亀石は、以前は北を向き、次に東を向いたと言う。
そして、今は南西を向いているが、西に向き、当麻のほうを睨みつけると、奈良盆地は一円泥の海と化す、と伝えられている。

かの松本清張は著書「火の路」で斉明天皇(594年~661年)によりもたらされ、益田磐船はゾロアスター教の拝火壇ではないかといった仮説を立てた。

確かに蘇我氏の氏寺である飛鳥寺の飛鳥大仏は非常にエキゾチックな顔立ちをしているし、法隆寺の秘仏、夢殿の救世観音も日本人離れした鼻すじをもった仏像である。

これら飛鳥時代に作られた仏像はどことなくペルシャ系の香りがするのは、おそらく仏教とほぼ同時期にゾロアスター教も日本にもたらされた可能性が高いからである。

お水取りや、お松明という行事には、ペルシャ時代のゾロアスター教の儀礼に類似した部分があるというのだ。

十一面観音に対する行事だが、アナーヒター女神への信仰を思わせる部分もあるという。

松本説は、当時はショッキングなもので、大きな話題となった。
現在では東大寺自身が、修二会におけるゾロアスター教の影響を認めているという。

東大寺修二会(お水取り)上堂の松明を見る
修二会のシンボルのような行事、二月堂の舞台で火のついた松明を振り回す「お松明」。 … 続きを読む →

そういう目で見ると、お水取りもまた違った趣を添えるのではないか。

ところでこの「お水取り」の後に、「達陀(だったん)の行法」というのがあるのだそうです。

これは60キロもある大松明に火をつけ、足踏みも荒々しく火天が担ぎ回り、辺り一面火の粉の海となる中を通過する行事なのだそうですが、やはりゾロアスター教の神話では、最後の審判の時に火の神様が全ての人を火の中を通過させ、正邪を判別し、身を清めるというのがあるのですが、この「達陀」は「お水取り」の世界創造に対する終末、静に対する動として、やはりゾロアスター教の世界観を表したものと言えそうです。

となれば、この「だったん」と言う言葉が、もしかするとペルシャ語の「widardan(ウィダルダン=通過する)」から来ているかもしれないというのです。
「通過の儀礼」、そういうペルシャ語が翻訳されずにそのまま「だったん」と呼ばれてきたのではないか――。

飛鳥東垣内遺跡。

平成11年(1999)、飛鳥東垣内遺跡で7世紀中頃の幅約10m、深さ約1.3mの南北大溝が発掘された。
この溝は飛鳥地域の中でも最大級のもので、物資を輸送する運河と考えられている。

また、飛鳥池東方遺跡や飛鳥宮の下遺跡、奥山久米寺の西方でも見つかっており、総延長は約1km以上にも及ぶ長大なものになる。
 
「日本書紀」でみると、斉明天皇2年(656)の条に石上山(いそのかみやま・天理市豊田山)の石、天理砂岩を運ぶために渠(みぞ)を掘って舟運で運び、宮の東の山に石垣を造り、石の山丘と呼ばれたことが記されている。
 
「宮の東の山の石垣」とは、南方にある酒船石遺跡のことであり、この大溝も酒船石遺跡の東裾から伸びている。

飛鳥東垣内遺跡の大溝は、その規模や掘削時期・位置からみて「日本書紀」に記載されている「狂心渠(たぶれこころのみぞ)」の一部である可能性が高い。

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