依水園は、奈良観光の中心、東大寺南大門の真西にあり、その地を流れる吉城川の流れをうまく取り入れて、庭をつくっている。
園内は今、ドウダンツツジが盛り。
フジが古木の枝から垂れている、松が新芽を伸ばし、園内では芽摘みが行われている。
依水園のある場所は、奈良市水門町、その地名のもととなった水門こそ今では見られませんが、かつて吉城川にはいくつもの水門が設けられ、水車の原動力となっていました。
依水園の池の周りには、臼(うす)に使われていた石が飛び石として使われ、園内には水車小屋もあり、当時をイメージすることができます。
昔は、依水園の辺りで、川の水と水車を、製粉業や晒し業に利用してきました。
池には大きなコイがいます。
飛び石の先には行き止まりを示す「止め石」。
「関守石(せきもりいし)」とも呼ばれるが、デザイン性の高い意匠だと関心させられます。
名の由来は諸説あり、池が吉城川の水に依っているためという説や、然庭園内の池が草書体の水の形をしていることに由来するという説、杜甫の「名園緑碌水」の句に由来するなどの説があるが、はっきりしたことは分かっていない。
依水園は、江戸時代前期に奈良晒(ならさらし:高級麻織物)を扱う将軍御用達商人・清須美道清(きよすみどうせい)が造らせた「前園」と、明治時代の実業家・関藤次郎(せきとうじろう)が造らせた「後園」で成り立っている。
昭和33年に一般公開され、昭和50年に国指定名勝を受ける。
奈良晒は奈良地方で生産されてきた高級麻織物。
麻の生平(きびら)を晒して純白にしたもので、主に武士の裃(かみしも江戸時代の武士の礼服)や僧侶の法衣として用いたれた。
また、千利休がかつて「茶巾は白くて新しいものがよい」と語ったことから、茶巾としての需要もあったという。
若草山や東大寺南大門などを借景とする。
前園と後園の二つに分かれており、それぞれが異なった景観を見せる。
前園は寛文12年(1673年)に晒職人であった清須美道清の作庭で、茶室「三秀亭」がシンボル。
後園は明治時代に実業家関藤次郎が築いた築山式の池泉回遊式庭園で、作庭は裏千家十二世又妙斎宗室による。
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