「やは肌の晶子」と呼ばれた与謝野晶子は堺の老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女として生まれた
大阪で唯一残る路面電車・阪堺電気軌道の宿院駅から徒歩1分、大道筋沿いに歌集「みだれ髪」などで知られる女流歌人・与謝野晶子の生家跡の碑と歌碑がある。
説明書きの地図で見ると丁度現在の路面電車を横断するような位置に「駿河屋」があったことがわかる。
家業は没落しかけており、3人目の女の子であったため両親から疎まれて育ったようだ。
妻のいる与謝野寛(鉄幹)と道ならぬ恋に落ち、1899年今で言う略奪婚をしたため、親に勘当された。
生家跡に建てられた碑には「海恋し潮の遠鳴り数えつつ少女となりし父母の家」という、望郷の念を詠った彼女の歌が刻まれている。
歌集『みだれ髪』では、女性が自我や性愛を表現するなど考えられなかった時代に女性の官能をおおらかに詠い、浪漫派歌人としてのスタイルを確立、所収の短歌にちなみ「やは肌の晶子」と呼ばれた。
非常な子沢山で子供を12人出産している(うち1人は生後2日で亡くなる)。
1998年(平成10年)5月に生誕120周年を記念して堺市の南海本線堺駅西口に銅像が建てられた。
与謝野という姓は、京都府北部の与謝郡与謝野町に由来する。
財務大臣、金融担当大臣、経済財政政策担当大臣などを歴任した与謝野馨は晶子の孫にあたる。
生家跡に近い堺市堺区の開口(あぐち)神社に歌碑が完成。
境内には晶子の母校の府立泉陽高校の発祥の地を示す石碑があり、歌碑はその右隣に建立された。
少女(おとめ)たち開口の神の樟(くす)の木の若枝(わかえ)さすごとのびて行けかし
さかい利晶の杜の横に、わび茶を大成した千利休が生まれた屋敷跡と、茶の湯に常用していたといわれる椿井がある。
茶道という日本の精神文化の一つの頂点へと繋がる”こころの道場”を、三好長慶が作った功績には注目だ。
堺と茶道のかかわりを堺を制す者は、天下を制す 幻の堺幕府と三好一族で紹介している。
河口慧海の像。
中国や日本に伝承されている漢語に音訳された仏典に疑問をおぼえ、仏陀本来の教えの意味が分かる物を求めて、梵語の原典とチベット語訳の仏典入手を決意。
日本人として初めてチベットへの入国を果たした。
現在、生家跡(大阪府堺市堺区北旅籠町西3丁1番)に記念碑が設置され、その最寄り駅である南海本線七道駅前に銅像が建てられている。
河口慧海にチベット行きを決意させたのが、京都・宇治にある萬福寺・塔頭「宝蔵院」の一切経の版木だった。
冬日の萬福寺でエピソードを紹介している。
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