天草灘

九州

天草は、旅人を詩人にするらしい。・・・頼山陽が「呉耶越耶」といったり、与謝野晶子が「江蘇省より秋風ぞ吹く」と詠んだりしたのは、気分として大げさではなかったことがわかる。

水平線そのものが、はるかな未知の境いから文明の響きをひびかせてくれるような気がする。
「天草というのは、山も海も、ものを言っているみたいですね」右側の水平線を見ていた須田画伯が、いった。(司馬遼太郎『街道をゆく 島原・天草の諸道』より)

天草の洋に泊す   頼 山陽

雲か山か 呉か 越か 水天 髣髴 青一髪

万理舟を泊す 天草の洋 煙は蓬窓に横たわって日漸く没す

瞥見す 大魚の波間に躍るを 太白船に当って名 月に似たり

「文意」遥か彼方に見えるのは雲だろうか、山だろうか。
或いは呉の国だろうか、越の国だろうか。

海面と空が交わる水平線は、髪の毛を一本ピーンと張った様に見える。
私は今、京都から何万里も遠く離れた天草の洋に来て、船で旅をしている。

船はすべるように流れて行く、そして夕方になると陽が西に傾いて、波間には大きな魚が跳ねている。
陽が沈んでゆくと船の正面の天空には太白星(金星)が月のように明るく輝きだしている。

山陽はその実感を、あれは呉であるのか、それとも越か、と詠んだのである。

天草の西高浜のしろき磯江蘇省より秋風ぞ吹く

というのは、昭和7年、与謝野晶子が、夫鉄幹とともに天草にあそんだときのうたのひとつである。

この西風は、江蘇省から吹いてくるのか。

と驚いているだけのこの歌は、昌子の歌としては出来がいいほうとはいえないが、、しかし天草の浜を歩くものの実感がよく出ている。

「天草の民話」に採録されている「鬼池のあわて者」という噺があって、島原の民話にくらべ、まこと明るい。

主人公を鉄五郎という。
鬼池の漁師で、底抜けのあわて者であった。

ある日、仲良しの義八と一つ舟に乗って、早崎瀬戸へのりだし、対岸の島原半島の近くマテ瀬寮に行った。

漁法は手繰り曳き(舟の上から網を打ってたぐりよせる)というもので、ごく原始的な、あるいは零細としか言いようのない魚の取り方である。

第一、一つ舟に大の男が二人も乗って手綱を一つしか打たないというのは、江戸期、すでに条件のいい地方では網も構造的になり、漁夫、漁船ともに分業化されて組織的に漁労していたことから見れば、まことに古風というほかない。

ともかくも、いくら民話でのこととはいえ、鉄五郎と義八という大の男二人が一つ舟に乗って手繰綱をひくというのは、近世漁業経済史の目抜き通りの漁場から見れば天草の悲しみを語っているともいえる。

まわりに魚のいるうみがふんだんにありながら、それを惜しげもなく買う大消費地がないことや、農村そのものが、魚を買って漁村を成長させる力をもたなかったことによる。

それだけに、鬼池の二人の漁師は、近世くさい経済的な嶮しさを持たず、古代以来ののどかさを持っていたのであろう。

たまたまこの日は、舟が沈むほどに大量だった。

こがん大漁はめずらしか。
村にゃ売り切れんけん、肥後さ売りぎゃ行こかい。

ということで、その前に舟の上でめしを炊いて食うことにした。
めしは、粟であった。

漁に行く者が、袋に粟を入れて持っていくというのは、ずっと後の明治38年の頃の、しかも沖縄での話だが、宮古島で古老から聞いたことがある。

むろんコメの方がいいに決まっているが、土地の貧しさがそれを許さなかった。

子の民話では、いざ粟を炊こうとするとき、釜を海中に落としてしまう。

落とした場所の目印のために舟ばたにしるしをつけておくという滑稽ばなしなどがあって、やがて天候が一変し、暴風雨に見舞われてしまう。

二人は帆柱につかまって吹き飛ばされないようにするうちに舟は西へ矢のように流されてゆく。

富岡の岬を過ぎれば、すでに外洋である。
かれらは夜をこめて流された。

義八が鉄五郎をはげまして、風さえ凪げば、唐の国でも着くけん、そがん弱き出すな。
と励ました。

結局、かれらは唐の国に着いてしまう。
浜辺に立って家々からこぼれる灯をながめながら、
唐の国はよかなあ。
天草あたりよりよか。

灯の色までちがうござる。
かわら屋根も多か。

と感心したが、ともかく二人は肥後弁でいうひだるかった。
食物を恵んでもらおうと思い、門付けをした。

食を乞う場合、なにか持ち合わせの芸をするのが、かつての日本の習慣であったというより、芸さえすれば、それが合図になって人々が食を恵んでくれた。

鉄五郎は即興の歌詞でうたった。

わたしゃ鬼池ンてんぐり引き
風に吹かれてコンチリメン
ひだるかで、こっぱ、一つっかけ
食わせんな

こっぱというのは、薩摩芋の切干のことである。
ひとびとが集まってきて、事情をきいた。

どういうわけか、唐土でも天草便が通じた。

唐はよかとこでごわすなあ。
と二人が唐を礼賛するうちに、人垣の一人がたまりかねて、

ここは唐ではなか。
天草の下島の西海岸の高浜じゃ。
と、いった。

話は、それだけである。
この民話は、たとえば淡路島あたりでは成立しないであろう。

あるいは、小さな海をひとつ隔てただけの島原半島でも、こういう民話ができるかどうか。

半島はなんといっても内陸という「国内」をひきずっているのである。

その点、西の海にうかぶ天草の人々によって心理的にも、実際の交通から考えても、京や江戸より唐の方が近かったという気分がよくあらわれている。

むろん「から」が中国に限らず、外国一般をさすことばであったことはいうまでもない。

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