その絢爛豪華な造りから、徳川幕府の権力を誇示する、シンボル的な城郭としてとらえがちな名古屋城。
ところがその実態は、大阪の豊臣方に対して旺盛な戦闘意欲を随所に秘めていた、まさしく「戦闘指令所」といえる巨大城郭であった。
能楽堂の裏手に、加藤清正像がある。
これはカゴメが寄贈したもので、おなじみの甲冑姿の加藤清正が床机に腰掛け、采配をもってたたずんでいる。
かなり大きく迫力があるが、名古屋城だけ見て帰ってしまうと、忘れ去られてしまうような場所にあるのが残念である。
正門は能楽堂と道路を挟んである。
この能楽堂は上演していない日は中を覗くことができる。
正門(焼失・再建)
明治43年に旧江戸城内の蓮池御門が移築されたが、第2次世界大戦により焼失したため、昭和34年、天守閣と共に再建された。
御深井丸付近から天守閣を望む。
金色さん然たる金鯱を城頭に頂き、名古屋のシンボルとして親しまれてきた名古屋城が灰じんに帰してから10有余年、昭和34年10月、天守閣が再建されました。
五層五階の大天守閣のオリジナルは、加藤清正の普請によるものである。
鯱も彼の提案によるものとか。
現在の大天守閣は、鉄骨鉄筋コンクリート造りで、内部は博物館になっており、最上階には展望室が設けられている。
樹齢 600 年以上を経たと伝えられる天然記念物「榧(かや)の木」。
藩祖義直が大坂の陣に出るに当って、その実を食膳に供したと伝えられています。
加藤清正の刻文。
天守台石垣の北東部に残る石には「加藤肥後守 内小代下総」と刻まれている。
天守閣の東の不明門の南に植えられている御殿椿。
この椿は、名古屋城築城当時から本丸御殿の南庭にあったと伝えられ、「御殿椿」と称せられるようになった。
椿の種類としては「大城冠」(だいじょうかん)というそうだ。
昭和20年の名古屋大空襲の際に、本丸御殿とともに焼失したが、幸運にもその焼け株から芽を出したという。
それを接ぎ木して現在の不明門のきわに植えたものだという。
椿ひとつにもこんなに歴史がある。
剣塀。
軒桁に30センチメートル余りの槍の穂先を並べ、忍返しとして使われたもので、名古屋城では、天守閣と小天守閣とを連結する橋台の西面や、不明門北面に見られます。
天守閣の東から北へ抜ける門。
不明門(ふめいもん)とはユニークな名称ですが、本丸御殿の大奥へ通ずる秘門で、常に鍵が厳重にかけられていたことから「あかずの門」とも呼ばれていたようです。
この門の塀外部軒桁には防護機能として、忍び返しにした「剣塀(つるぎべい)」が設けられています。
不明門を外側から見る。
1612年(慶長17年)名古屋城天守が竣工した当時の金鯱は一対で慶長大判1940枚分、純金にして215.3kgの金が使用されたといわれている。
高さは約2.74メートルあった。
しかし、鯱の鱗は、藩財政の悪化により、都合3回にわたって金板の改鋳を行って金純度を下げ続けた。
そのため、最後には光沢が鈍ってしまい、これを隠すため金鯱の周りに金網を張り、カモフラージュした。
この金網は、表向きは盗難防止(後述の通り、実際に何度か盗難にあった)や鳥避けのためとされ、戦災により焼失するまで取り付けられていた。
1871年(明治4年)に政府に献納され、東京の宮内省に納められた。
その後、雄鯱は国内の博覧会を巡り、雌鯱は1873年(明治6年)のウィーン万国博覧会に出品された。
金鯱が大天守に戻ったのは1879年(明治12年)2月である。
徳川の金鯱の中では最も長く現存していたが、1945年(昭和20年)に名古屋大空襲で焼失した。
残骸は、戦後GHQに接収され、のち大蔵省に移ったが、1967年(昭和42年)に名古屋市に返還された。
名古屋市は残骸から金を取り出し、名古屋市旗の冠頭と、金茶釜に加工して保存している。
現在の金鯱は復元されたもので、復興天守建造の時、日本国内に数えるほどしか残っていなかった鎚金師で大阪造幣局職員の手により製造された。
一対に使用された金の重量は88kgである。
西之丸・御深井丸など郭の接するところに防衛上から入り込んだ堀を設けている。
これを「鵜の首」という。
本丸を巡って「鵜の首」と呼ばれる箇所は五ヶ所残っている。
東南隅櫓の直ぐ南に、日の丸の扇と槍を持ち、大石の上に立つ加藤清正の銅像がある。
天守閣の石垣の構築を命じられた清正は、巨石の運搬に際し、その上に着飾った小姓を立たせ、自ら音頭をとって木遣(きやり)を歌わせ、民衆が老若を問わず引綱をとって運んだと伝えられる。
東南隅櫓(重要文化財)
辰巳櫓ともいわれ、その規模、構造は西南隅櫓と同じですが「落狭間」の破風の形を異にしています。
この櫓は創建当時の姿を伝えるもので、鬼瓦などに葵の紋が見られます。
表二之門(重要文化財)
古くは南二之門といわれ、門柱・冠木とも鉄板張りとし用材は木割りが太く堅固に造られています。
袖塀は土塀で鉄砲狭間を開いて要害としての堅固さを示しています。
埋め立てられた馬出しの堀。
馬出しの西側の堀は埋め立てられ、西の丸と地続きになっている。
御深井丸(おふけまる)は本丸の北西に位置し、本丸とは不明御門で連絡でき、本丸北側の御塩蔵構(おしおぐらがまえ)や西之丸とも狭い通路でつながっていた。
現在、本丸御殿復元工事が行われています。
本丸御殿復元模型。
本丸御殿(焼失)は天守閣の南、本丸のほぼ中央に建てられた大建築で、当初は、初代尾張藩主徳川義直の住居と藩の政庁として使用され、その後将軍が上洛する際の宿館となりました。
惜しくも第二次世界大戦で焼失しましたが、平成21年から復元工事が始まりました。
本丸御殿復元工事の案内ポスター。
素屋根内の工事現場の様子。
案内板によると「 島根県松江市山代町にあった団原古墳の石室で、本来は床石があって、手前に羨道(石室への通路)を備えていた。
古墳時代後期のもので出雲地方独特の横穴式石室である。
寄贈者 名古屋市 長谷川祐之氏 」とあります。
御深井丸の東には、天守再建工事の際に取り除かれた天守の礎石が置かれている。
空襲時に礎石についた黒い焼け痕が、現在でも観察することができる。
北部から見る外堀。
天守閣の石塁の構築を命じられた加藤清正は、巨石の運搬に際し、自ら音頭をとって、木遣(きやり)を歌わせ民衆の老若を問わず綱をとって運んだと伝えられていますが、この石垣の施工大名は黒田長政なので単なる説話と思われます。
西南隅櫓(重要文化財)
未申櫓ともいわれ、屋根 2 層・内部 3 階の櫓。西、南両面には、軍事用の「石落し」を張り出して屋根を付けています。
大正10年に石垣と共に崩壊しましたが、宮内省によって修理復旧され、鬼瓦などに菊花紋が見られます。
慶応4(1868)年正月二十日、二之丸御殿向屋敷の庭前で、尾張徳川家の三重臣が斬首され、尾張藩内の佐幕派弾圧事件いわゆる「青松葉事件」が始まりました。
「青松葉事件」の名は処刑された重臣のうちの筆頭格である渡辺在綱の家が「青松葉の渡辺」といわれる渡辺半蔵守綱の子孫であるからその名があるそうです。
昭和の初めに、「青松葉事件之遺跡」碑が現在地より南約100mの処刑地跡に建立されましたが、その後所在不明となったのでここに復元されたものです。
名古屋城二の丸に「王命に依って催さるる事」「藩訓秘伝之跡」と彫られた一本の石碑が立っている。
ちょうど松の木に隠れるようにしてあり、入城した多くの人たちはこれに目をとめることもなく通り過ぎていく。
しかし、御三家の尾張が「朝臣」というのだから、この持つ意味はタダゴトではない。
初代藩主徳川義直は家康の第九子ながら、幕府何するものぞの気概にあふれていた。
三代将軍家光が「余は生まれながらにして将軍の子」と言えば、義直もまた「わが父は権現様(家康)なり」と負けてはいない。
甥に当たる家光とはわずか4歳しか離れていなかったのである。
義直は儒教をたっとび、勤皇の志にも厚い人だった。
「朝命に依って」の一文はその著『軍書合鑑』の巻末にこっそり記されている言葉。
万が一、幕府と朝廷が争うような事態となれば、尾張は迷わず朝廷側について戦えというのだ。
名古屋城は、織田信長誕生の城とされる今川氏・織田氏の那古野城(なごやじょう)の跡周辺に、徳川家康が九男義直のために天下普請によって築城したとされる。以降は徳川御三家の一つでもある尾張徳川家17代の居城として明治まで利用された。
姫路城、熊本城とともに日本三名城に数えられ、伊勢音頭にも「伊勢は津でもつ、津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ」と詠われている。大天守に上げられた金の鯱(金鯱(きんこ))は、城だけでなく名古屋の街の象徴にもなっている。
大小天守や櫓、御殿の一部は昭和初期まで現存していたが名古屋大空襲(1945年)によって天守群と御殿を焼失した。戦後に天守などが復元され、現在城跡は名城公園として整備されている。
名勝二之丸庭園
元和年間(1615年~1623年)二之丸御殿の造営に伴って同御殿の北側に聖堂(金声玉振閣)を中心として設けられましたが、享保(1716年~1736年)以後たびたび改修され枯山水回遊式庭園に改められました。
埋門とは、城郭の石垣又は土塀の下をくぐる門を言う。
埋門の跡は二之丸庭園の西北の位置にあり、城が危急の場合、城主はここから脱出する事が決められていた。
この門をくぐれば垂直の石段があり、これを降り濠を渡って対岸の御深井丸の庭から土居下を通り大曽根、勝川、定光寺を経て、木曽路に落ち行く事が極秘の脱出路とされていた。
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