大宰府天満宮の紋は梅紋。
現在、京都の北野天満宮とともに全国天満宮の総本社とされ、また菅公の霊廟として篤く信仰されている。
表参道から境内の奥まで、いたるところに茶屋があり、その多くは品目のうちに梅ヶ枝餅を用意している。
そうした茶屋のひとつ「お石茶屋」について、吉井勇は次のような歌を詠んだ。
太宰府の お石の茶屋に 餅くへば 旅の愁ひも いつか忘れむ
この「お石茶屋」については勇のほかにも、野口雨情、犬養毅、佐藤栄作などが揃って贔屓にしたという。
太宰府天満宮の参道に在る石の鳥居(南北朝時代の建立・九州最古の鳥居・県文化財)
太宰府天満宮・神牛
道真公が亡くなられた後、御遺骸を牛車に乗せて進んだところ、まもなくその牛が伏して動かなくなった。
それは管公の御心によるものであろうと、その地に御遺骸を葬って墓を造ったと伝えられます。
神牛と自分の身体の同じ部分を撫でると病気全快し、神牛の頭を撫でると頭がよくなるそうです。
心字池と太鼓橋、心の字の形をした池に三つの橋が架かっていて、過去、現在、未来を表しているという。
桜門、重層の入母屋造り、檜皮葺きの二重門。
慶長年間に石田三成が再興しましたが、明治時代に火災で焼失し、現在のものは大正3年(1914)に再建されたもの。
寺院には山門があり仁王が立っています。
これが神社の場合、楼門と言い、立っている人を随身と言います。
随身はもともと平安時代に大臣などの貴人の外出にあたって護衛をした近衛府の兵士のこと。
大臣ならば随身は10人とか定められていました。
仁王も随身も「あ・うん」の口相をしています。
大宰府天満宮本殿
戦乱や火災で数度炎上し、現在の本殿は1591年に筑前国守小早川隆景が再建したもので、国の重要文化財になっています。
檜皮葺きで、正面には唐破風状の向拝がついた、桃山時代の豪壮な様式で、国の重要文化財。
右に「飛梅」、左に「皇后梅」が花開いています。
本殿の奥に道真公の御霊が祀られています。
右大臣であった菅原道真は昌泰4年(901年)に左大臣藤原時平らの陰謀によって筑前国の大宰府に員外帥として左遷され、翌々延喜3年(903年)に同地で薨去した。
薨後、その遺骸を安楽寺に葬ろうとすると葬送の牛車が同寺の門前で動かなくなったため、これはそこに留まりたいのだという道真の遺志によるものと考え、延喜5年8月、同寺の境内に味酒安行(うまさけのやすゆき)が廟を建立、天原山庿院安楽寺と号した。
一方都では疫病や異常気象など不吉な事が続き、これを「道真の祟り」と恐れてその御霊を鎮めるために、醍醐天皇の勅を奉じた左大臣藤原仲平が大宰府に下向、道真の墓所の上に社殿を造営し、延喜19年(919年)に竣工したが、これが安楽寺天満宮の創祀で、正暦元年(990年)頃からは社号としての「天満宮」も併用された。
太宰府天満宮の「厄晴れひょうたん」
道真公は受験生だけの神様ではありません。
次のような言い伝えがあり、大人の悩みや願いを聞いてくださるそうです。
天満宮には古くから、神苑の木の下で酒を酌み交わすと、厄を免れるという信仰がある。
そこで「厄晴れひょうたん」の中に願いごとを書いた紙を納めて自宅の神棚に祀り、災難を免れるよう祈願します。
そして厄晴れの際には、本殿裏のひょうたん架所にかける慣わしです。
酒を断って祈願しなさい、ということはよくありますが、ありがたいことにここでは、梅を愛でながら酒を楽しんでもいいのだ。
境内の梅の実を使った御神酒や、御神酒とひょうたん酒器のセットも売っています。
梅園の梅は既に盛りを過ぎています。
代わりに梅の花に埋め尽くされた天満宮のポスターをどうぞ。
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大宰府天満宮へのアクセス、行き方歩き方
福岡県太宰府市宰府4丁目7番1号
092-922-8225
西鉄太宰府線太宰府駅から徒歩5分
JR鹿児島本線二日市駅から西鉄バスで23分 1時間に1本程度の運行のため、時間が合わない場合はJR二日市駅から西鉄二日市駅まで西鉄バス、またはJR二日市駅から徒歩5分の西鉄紫駅から1駅の西鉄二日市駅から西鉄太宰府線を利用するのがよい。