古式床しく 釿始め(ちょうなはじめ) 広隆寺

京都府

宮大工の古式床しい釿始めの儀式が番匠保存会により毎年、1月2日に太秦・広隆寺で行われます。

釿は大工道具の1つ。
くわ型の斧の事で材木を削る道具で古代から大建築の始めにはこの儀式が必ず行われていました。

山門を入ったところには儀式に使われる御木が用意されている。

釿始めの式次第。

「匠」と書かれた道具箱、墨つぼ、釿(ちょうな)、鑓鉋(やりがんな)

大槌

儀式は上宮王院太子殿の前庭で行われるが社前にはお供え物。
お供え物の餅は儀式後参拝者に配られる。

10時きっかりに山門より御木を儀式斎場に担ぎ入れる、ゆりもち音頭と雅楽の奏楽と共に行列は進む。

木遣『ゆりもち』を声高くうたいながら御木(式木)を運ぶ職人衆。

1尺杣角,長さ2丈の檜材。
式木の手前右脇に儀式道具を置き,大紋を着た行事役が控える。

墨壷、墨差、曲尺(さしがね)が脇司によって運ばれ、御木に置かれる。

その道具から、烏帽子、狩衣装の番匠役(棟梁)が墨つぼで墨を打つ。
三度ずつ繰り返される。(「墨矩の儀」「墨打の儀」)
これは材の捩れを測るものとされる。

ちなみに、番匠は都の御所勤めの大工のことをいい、建物の造営儀式を司どっていた。
広隆寺を建立の聖徳太子が宮殿などを造る法律を残し、その形式を代々伝えてきたことから、広隆寺で釿初めが行われているものと推測されます。

釿打の儀 本・中・末(一ノ釿)、向きをかえて末・本・中(ニノ釿)、再び中・本・末(三ノ釿)と9度3回ずつ、最初の腕堅めをいれ都合28回打つ、この打ち方は『匠家故実録』による。

次に、鑓鉋(やりがんな)が運ばれ、番匠が削る。(「清鉋の儀」)これで作業は終了。

黒半纏に「匠」と書かれた京木遣(きょう・きやり)の13人が木遣音頭を奉納。
木遣は京都市の無形民俗文化財に指定されている。

最後に法被姿の木村棟梁が参拝者に向かって挨拶。
供え物の餅が配られる。

釿始めのことなど

釿始は,戦前まで御所や上賀茂神社など各所でおこなわれていたが,伝統職能のさかんな京都でさえ戦後はすっかり途絶えていた。
番匠保存会が,工匠の神様としても知られる聖徳太子ゆかりの広隆寺太子殿前で釿始を復活させて12年になる。

同会の釿始は,御所出入りの宮大工「大吉」の棟梁,故三上吉兵衛氏の指導のもと,『匠家故実録』,『番匠往来』にも照らしながら決められ,小御所の方式をふまえたものである。

古代律令制において交替で営繕に従事した番上工(ばんじょうこう)に由来するとされる。
元は建築関連の官司(修理職・木工寮・造寺司など)や地方機関(国衙・国分寺など)などに所属し、必要に応じて他所に出作していたが、鎌倉時代に入ると都市を中心として特定の組織に属しない散在工が増加し、番匠間に競争が激化したため、13世紀から14世紀にかけて作事請負権を掌る職として大工職が成立した。

大工職を務める「大工」は引頭・棟梁以下の番匠を統率する役目を担い雇主によって補任されるものであったが、譲与や売買によって大工職が移動することがあり、雇主の補任権限が形骸化した。

更に大工職を巡る相論や作事請負権を特権化させて反対に雇主に高い賃金を要求したことによって賃金の高騰や作業の遅滞・忌避が行われるようになり、永正7年(1510年)に室町幕府が大工職の撤廃を命じると次第に解体されていった。

番匠は大工職の補任料を納める以外に租税負担が無く、他の職種のように供御人や神人になったり座を結成することもなく、棟梁層による緩やかな組織が存在しているのみであった。
16世紀に入ると戦国大名が有力な棟梁を領国の大工(国大工・郡大工)に任じて領内の番匠を統率させるようになる。

こうした大名による職人支配の体制が幕藩体制の大工組織へと継承されることになる。(ウィキ)

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広隆寺へのアクセス、行き方歩き方

住所:〒616-8162京都府京都市右京区太秦蜂岡町32
電話:075-861-1461

京福電鉄「太秦広隆寺駅」からすぐ、またはJR嵯峨野線「太秦駅」から徒歩13分