近世以前の町並みがこれだけまとまって残っている場所は日本では他に無いといわれ、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
先ず全体を紹介し、後程主要な建物を個別に紹介します。
先ず、今井観光案内の拠点、橿原市立今井まちなみ交流センター「華甍(はないらか)」からスタート。
1903年(明治36年)に建てられ社会教育施設として、重要文化財旧帝国奈良博物館本館に次ぐものである。
その後、1929年(昭和4年)より今井町役場として使用されていた。
現在は、今井観光案内の拠点となっており、今井町の歴史を詳しく、わかりやすく解説する資料を集め展示している。
「華甍」脇の小川。
環濠集落の今井町ですから、そのお堀の一部を整備したものだと思われます。
この古い町並の外周には環濠跡を現在に残している。
この環濠は巾三間(約5.45m)を有する濠をめぐらし、その内部には同じく環濠を掘り上げた際の土を盛り上げて三間の土塁を築き、雑木藪を植えて外部からの視界を妨げていた。
明日香川 しがらみ渡し 塞セかませば
流るる水も のどかあらまし
柿本人麻呂 巻2 - 197
文武四年(700)、天智天皇の子明日香皇女は亡くなりました。
明日香川の玉藻が靡き合うように、互いに愛し合っていた背の君を残して、悲しみに萎れ、夕星のようにさまよい歩く背の君、どうお慰めしてよいか分かりませんが、せめて明日香皇女の名前だけでも、明日香川よ、永久に伝えておくれ、と人麿は詠います。
織田信長本陣跡がこの辺りにあったという。
織田信長に挑戦し、武装解除されてから自治権を委ねられて自治都市として確立した町並みが出来上がり、江戸時代において惣年寄制によって江戸初期から末期にかけての民家が軒を連ねるようになり、町並の形態が現在まで残されてきた。
中街道 (下ツ道)の延長線上にある今井町本町筋。
条里制の基幹線である中街道 (下ツ道)は八木町の札の辻、井戸の辻、醍醐辻を南北に走り、醍醐辻を西に延長していくと、今井町の本町筋に合致し、今井町を形成計画していく上での中心線となっていて、ほぼ長方形の区域の中に東西南北方向に方眼状に道路を配し、町並みや街路の形状は町造りの始められた頃の区画が今も残っている。
旧西町生活広場、本町筋西方に位置し、路地に面した角地で、重要文化財豊田家の北側に接しています。
広場には、40tの耐震性防火水槽を埋設し、また、伝統的な建物を修理し、縁台を設けた休憩所と防災倉庫を併設した生活広場として開放しています。
路地を抜けると御堂筋、豊田家住宅(別途掲載予定)等が見られる。
称念寺本堂 – 浄土真宗本願寺派の寺院。
先祖は、佐々木氏の随兵で近江国犬上郡の荘官を務めていた河瀬城主河瀬氏。
浅井長政の家臣であった河瀬権八郎(河瀬兵部丞)が逃れて得度し、寺号を得て御坊(今井山)を開いた。
今井町は称念寺を中心に発展した寺内町であったが、織田信長に武装解除されてから以後は、自由商業都市として栄えた。
豊臣秀吉の天下になって河瀬氏から今井氏へ改名し、秀吉の吉野花見の途次、「兵部茶屋屋敷」を建て秀吉を招いている。
また、1877年(明治10年)2月10日~11日明治天皇の「大和行幸」の際の今井行在所(あんざいしょ)であった。
このとき明治天皇は、西南戦争勃発の第一報を聞いている。
本堂は近世初頭に再建されたものであるが、浄土真宗では本山の本願寺以外で初めて2002年(平成14年)5月23日に国の重要文化財に指定された。
また、対面所は元禄8年(1695年)の棟札があり、庫裏・客殿は17世紀初期頃の建設で、太鼓楼は1845年(弘化2年)の再建でいずれも橿原市指定文化財に指定されている。
御堂筋、きれいな町並みが続く。
御堂筋から北へ向かう、蓮妙寺の屋根が見える。
露地も古い町並みの風情が感じられる。
蓮妙寺、工事中でした。
正慶二年(1333年)創立したと伝えられ、本堂前に鎮座する『慶巳大善神』は、口の中の守護神として古くから知られる。
汚水管マンホール蓋、中央に牛や馬を繋ぐ金具・駒つなぎ、周りに屋根瓦を描いている。「いまい」「おすい」の表記で受枠にV字模様あり。
汚水管マンホール蓋、古い町並みのデザインです。
地面のタイルにも・・・
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今井町へのアクセス、行き方歩き方
奈良県橿原市今井町
近鉄八木西口駅から徒歩で5分
JR畝傍駅から徒歩で8分