六勝寺の小道を散策

京都府

この記事は誤って消去してしまった記事の再掲です。
画像は2012年4月16日訪問時のものです。

岡崎公園を取り囲む疎水道に沿って作られた、平安末期に存在したと伝えられる「六」つの「勝」の字を持つ寺を偲ぶ散歩道。
往時の栄華を思い浮かべつつ散策したい。

岡崎公園をとり囲んで流れる疏水。
その疎水に沿った小さな散歩道が、六勝寺のこみちである。
六勝寺のこみちのは、東は哲学の道や東山自然緑地散策路からで西は鴨川の岸辺まで続く。

春は桜、秋は紅葉の素晴らしい小道だ。
寺跡に建つ石碑めぐりもおすすめ。

神宮道脇を下れば静かな白川畔の散策が楽しめる。

六勝寺と白河殿推定復元配置図
現在の建物等が記されているので散策の参考になる。

平安時代に六勝寺があった岡崎は今、京都会館、京都府立図書館、京都市美術館、京都市動物園、京都国立近代美術館、武徳殿、平安神宮、岡崎球場等が並ぶ文教地区になっている。

いずれも「勝」の字がつくので六勝寺と呼ばれた。
さらに六勝寺の周辺には、多くの院御所(白河南殿・白河北殿など)や寺社が集まっていた。
院政期という新しい時代を象徴する計画都市でもあった。

法勝寺 – 1077年白河天皇の御願により創建。
尊勝寺 – 1102年堀河天皇の御願により創建。
最勝寺 – 1118年鳥羽天皇の御願により創建。
円勝寺 – 1128年鳥羽天皇の皇后待賢門院(藤原璋子)の御願により創建。
成勝寺 – 1139年崇徳天皇の御願により創建。焼失後は伏見、築地へと移り、現在は世田谷に「伏見山 成勝寺」として残る。
延勝寺 – 1149年近衛天皇の御願により創建。

院政期 主要遺跡位置図
京都には様々な遺跡が残されている。
散策の計画に利用できる。

平安京創生館(アスニー)には平安京を復元した都市模型がある。
中央の五重塔が二つ並ぶのが尊勝寺、その左長い建物が見えるのが得長寿院(とくじょうじゅいん)、その左が白河南殿、尊勝寺の右が最勝寺、一番右の九重塔が見えるのが法勝寺。

法勝寺模型(京都市制作)
「国王の氏寺」と称された法勝寺の中心に位置する金堂の本尊は,奈良東大寺の大仏殿と同じく毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)でした。
これは,法勝寺が護国のための国家的寺院として位置づけられていたことを物語っている。

また,金堂南の池の中島には高さが80メートル以上あったと推定される壮麗な八角九重塔が建っていた。
法勝寺は、もともとは藤原良房の別荘だった「白河院」であるのだが、藤原師実の時に白河天皇が所望し、承保2年(1075)に法勝寺が建てられた。

法勝寺は六つの寺の中では一番大きく、東は疏水記念館あたり、西は岡崎道、南は京都市動物園の疏水の辺り、北は冷泉通と広大な寺域を有し、そこには豪奢な堂塔伽藍がひしめいていた。

熊野橋は徳成橋のお隣にかかる橋。
すぐそばに白川南殿跡の碑が立っている。

白川南殿跡の碑

白河殿は御所として機能していた。
そのうちの白河南殿は、法勝寺の西方に位置していた。
白河泉殿、白河御所、南本御所とも呼ばれ、白河上皇の院御所として、院政のもう一つの舞台となった

得長寿院(とくじょうじゅいん)観音堂跡、徳成橋東詰南、鳥羽上皇(1103-1156)の御願寺だった。
岡崎徳成町付近にあり、白河南殿の東に建てられた千体観音堂だった。
平忠盛(1096-1153)が1132年に建立した。
観音堂(三十三間堂)には十一面観音、等身聖観音千体が安置され、かなり大規模な建築だったとみられている。

この時期、三十三間堂は蓮華王院(三十三間堂)とともに二つ存在した。
なお、後白河院は、父・鳥羽上皇の得長寿院三十三間堂を参考にして現存する蓮華王院(三十三間堂)を建立したとされている。
その得長寿院は1185年の地震により倒壊し、以後廃絶した。

京都会館と武道センターをふくむあたりは尊勝寺の跡と推定されている。
これまでの調査では、金堂の基壇と東側回廊・東塔・西塔・阿弥陀堂・五大堂・観音堂・西限築地・北限溝など多くの遺構が検出されている。

尊勝寺は堀河天皇(1079~1107)の御願寺。
康和4(1102)年に落慶供養が行われ,方四町の敷地には様々な堂舎が建てられた。
創建後,たびたび災難に遭ったが,そのつど修復されたが、南北朝の内乱期に兵火で全焼したと伝えられている。

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六勝寺の小道へのアクセス、行き方歩き方

住所:京都府京都市左京区岡崎円勝寺町

JR京都駅から市バス5系統岩倉操車場前行きで30分、京都会館美術館前下車すぐ
地下鉄 東山駅下車徒歩約10分