万葉故地 橋本の万葉歌碑 真土山

和歌山県


真土山の山裾を流れる川で現在は「落合川」とよばれ県境です。

昔の県境界は東方の山頂でした。

この落合川に、土地の古老らが今に伝える「神代の渡り場」だ。
大岩の中央部が川の流れ路となって、人が跨げる幅である。

古代から通路「渡り場」としていたのであろう。
 
犬養孝先生は「万葉の国宝」だと絶賛。永く後世に残し伝えて行く必要と責任があると力説された。

橋本万葉の会の冊子より。

最初の目的地真土に向かう。

 朝毛吉 木人乏母 亦打山 行来跡見良武 樹人友師母 (①-55 調首淡海)

【読み下し文】 あさもよし 紀人ともしも 真土山 行き来と見らむ 紀人ともしも

(あさもよし) 紀伊の人が羨ましい 真土山(まつちやま)を いつも行き来に見ているであろう 紀伊の人が羨ましい。

あさもよし 紀伊へ行く君が 真土山 越ゆらむ今日そ 雨な降りそね (⑨-1680)

(あさもよし) 紀伊へ行くあの方が 真土山を 今日あたり越えているはず 雨よ降らないでおくれ。

大君の 行幸みゆきのまにま もののふの 八十伴やそともの男と 出でて行きし 愛うるはし夫は 天あま飛ぶや 軽かるの道より 玉だすき 畝傍うねびを見つつ あさもよし 紀伊き路ぢに入り立ち 真土山まつちやま 越ゆらむ君は 黄葉もみちはの 散り飛ぶ見つつ にきびにし 我は思はず 草枕くさまくら 旅をよろしと 思ひつつ 君はあるらむと あそそには かつは知れども しかすがに 黙もだもえあらねば 我が背子せこが 行きのまにまに 追はむとは 千度ちたび思へど たわやめの 我が身にしあれば 道守みちもりの 問はむ答へを 言ひ遣やらむ すべを知らにと 立ちてつまづく

天皇の行幸に従って、文武の百官たちと共に出発して行ったいとしいわが夫は、(天飛ぶや)軽の道から、(玉だすき)畝傍山を右に見ながら、(あさもよし)紀伊路に進み入り、今ごろは国境の真土山を越えているであろうあなたは、黄葉の風に散り飛ぶのを見ながら、馴れ親しんだ私のことは思わず、(草枕)妹も悪いものではないなどと思っているだろうと、うすうすは知っているけれども、それでも黙っていることができないので、あなたの行った道のままに、追いかけて行こうとは何度も思うものの、かよわい女の身なので、途中で道の関の番人が咎めた時の答えを、何と言ってやればいいのか、そのすべも分からずに、進みかねためらっています。

真土飛び越え石に向かう。

石上 布留の尊は たわやめの 惑ひに因りて 馬じもの 繩取り付け 鹿じもの 弓矢囲みて 大君の 命恐み 天離る 夷辺に罷る 古衣 真土山より 帰り来ぬかも (⑥-1019)

石上 布留の君は たおやめ故の 迷いのために 馬のように 縄を掛けられ 鹿のように 弓矢で囲まれ 大君の お咎めを受けて (天離る) 遠くの国に流される (古衣) 真土山から すぐに帰って来ないものか

橡の 衣解き洗ひ 真土山 本つ人には なほ及かずけり (⑫-3009)

橡(つるばみ)の 衣を解き洗って 又打ちー真土山の もとつ人ー古女房には やはり及ぶものがない

石上乙麻呂卿が土佐の国に流された時に詠まれた歌の歌碑。

飛び越え石のある落合川、みどりがきれいです。

”まつち”の語感

大和・紀伊二つの国をへだてる峠であればこそ、別離・望郷・妻恋の抒情がここに集まることとなる。

その上、万葉集には「まつも山」に「亦打」言一例)、「又打」こ一例)が使われていて「まつち」は「またうち」の略、すなわち、布をきれいにする砧で「またうつ」の意で、「まつち山」の語のひびきに、意識・無意識を問わず、「清新」の感が持たれていたのではないかと思われる。

橋本側から五条側を見る。

橋本側の道。

自然がつくった畳一枚ほどの平たい浸食岩。
二つの石をはさんで奈良県と和歌山県に分かれる(左が五條市、右手前が橋本市)

歌碑右面には
 「誰にかも 宿りをとはむ待乳山
   夕こえ行けば逢うひともなし

新千載和歌集八〇七の歌

左面には
 「いっしかと待乳の山の桜花
  まちてもよそに 聞くが悲しさ

後撰和歌集一二五六の歌が刻まれている。

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