近いと思って侮ってはいけません、JRもしっかりしています。
和歌山までは快速がバンバン走っています。
しかし、和歌山以南は特急がメインで、普通列車は1時間に1本。
和歌山で1時間待ちです。
接続をちゃんと確認すること。
やっとのことで湯浅到着、なんとここは無人駅。
JRも人員削減には色々と知恵を絞っていますね、車内検札なんか見たこともないでしょう。
ところがあるんです、何かあったんだろうと思うけど、先日の尾道からの帰り、いきなり車内検札が始まりました、学生数名が慌てていたようですが、金をとられてました。
見るところはちゃんと見ているんだね。
湯浅駅前に”文平の像”というのがあります、若き日の紀伊国屋文左衛門の姿です。
江戸時代前期の豪商、紀伊国屋文左衛門(紀文)は、寛文9(1669)年の頃、湯浅町別所で生まれたと推定されており、幼名を文平と呼ばれました。
紀州で商人として修行を積み、江戸に出ると独創的な商才を発揮、紀州みかんの輸送や木材商として巨万の材を築きました。
その後、数多くの伝説を残して資産を整理、晩年は風流の道に入り悠々自適の生活を送りました。
この像は荒海にみかん船をこぎ出そうとする文平の勇姿を表現しています。
沖の暗いのに白帆が見える
あれは紀の国 みかん船
(説明石碑より)
早咲き桜の名所は春爛漫 紀三井寺
金剛宝寺護国院(紀三井寺)は名草山の中腹、和歌の浦の絶景を望む景勝地に建っており … 続きを読む →
豪商紀ノ国屋文左衛門は若いころ貧しいが孝心篤い青年でした。
ある日母を背負って紀三井寺の表坂を上り観音様にお参りしましたが草履の鼻緒が切れてしまいました。
困っていた文左衛門の鼻緒をすげ替えてくれたのは和歌浦湾にある玉津神社の宮司の娘おかよさんでした。
これがきっかけで二人に恋が芽生え結ばれました。
その後文左衛門は宮司の出資金によって船を仕立てミカンと材木を江戸へ送って大儲けしたのです。
紀ノ国屋文左衛門の結婚と出世のきっかけとなった紀三井寺の表坂はそれ以来結縁坂と呼ばれるようになったそうです。
一攫千金ミカン船という話はどうも偽臭いという説があります。
紀伊国屋文左衛門の実像
幕末に為永春水が紀伊国屋文左衛門という実在の人物をモデルにして書いた長編小説『黄金水大尽盃』は12年間にわたり28編も続き、非常に多くの人に読まれました。
その結果、史実と小説がゴチャまぜになり、紀文の実像はわからなくなりました。
明治18年(1885)にでた『大日本人名辞書』に小説が紀文の逸話としてそっくり載せられ、これ以降の人物説明は逸話に沿って書かれているものがほとんどです。
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