阪神・福島駅~梅田橋跡~浄祐寺~大阪堂島市役所跡~出入橋~桜橋跡碑~堂島薬師堂~堂島米市場跡碑~河庄跡碑・蜆橋跡碑~露天神社と往年の北新地蜆川跡を辿る。
現在の新地本通と堂島上通の間に蜆川(別名・曽根崎川)が流れていました。
その川がいまの御堂筋と交差するところに蜆橋、いまの四つ橋筋には桜橋、さらに西へ田蓑橋の筋、堂島3丁目交差点あたりに梅田橋が架かっていました。
天保13年(1842)に公認の遊所地となった北の新地(つまり曽根崎新地)の中心地は梅田橋周辺で、『心中天の網島』の小春と治兵衛の道行きがはじまる大和屋もここにありました。
蜆川は、明治42年(1909)の「北の大火」のあと埋め立てられ、現在の地形になりました。
ビルの名前に辛うじて往時を偲ぶことができる。
明治7年(1874)に曽根崎の現在地に大阪駅が建設され、その後、鉄道と海運を結ぶために、駅の西側から現在の阪神高速の架かる道路沿いに梅田運河が掘られ、蜆川と交差して堂島川につながっていました。
蜆川(当時このあたりでは福島川)に架かっていた橋が緑橋、梅田運河に架かる橋が出入橋です。
阪神電車も開業当時は出入橋が起点でした。
出入橋きんつば屋
この店で味わえる『きんつば』は「創業当時から70年以上、味も作り方も変えてへん」というこだわりの味。
あずきの風味を生かすため、甘さ控えめの大粒のあずきが、薄皮の中にぎっしり詰まっていて、味にうるさい大阪人を魅了してきた代表銘菓だ。
日持ちしないので、その日のうちに食べるか冷凍庫へ。
北の新地の遊女たちの信心を集めたといわれる浄祐寺。
浄祐寺
創建不明、日蓮宗寺院。
当寺には赤穂浪士矢頭長助(やとうちょうすけ)、右衛門七(えもしち)父子の墓と、五大力(ごだいりき)墓がある。
ここに遊女菊野をめぐって実際に起こった5人殺傷事件の犠牲者の墓があります。
この事件は、遊女が心変わりしない証拠に三味線に書いた「五大力」という文字を「三五大切」と書き換えたところから起こりました。
墓には「五大力の墓」とあります。
この事件をもとに歌舞伎の『五大力恋緘(ごだいりきこいのふうじめ)』が演じられ、評判をよびました。
浄祐寺には赤穂浪士矢頭長助(やとうちょうすけ)、右衛門七(えもしち)父子の墓があります。
長助は討入り前に死ぬが、子の右衛門七は父の遺志をつぎ討入りを果たした。
江戸への討入りのとき貧乏で路用がなく、里人から借金をして出発した。
大石良雄はのちになってこのことを知り、里人に5両を返して感謝した。
里人は討入りを伝え聞き、墓をつくったという。
キタのビル街のど真ん中に静かにたたずむ浄祐寺。
ここのところで、川の南側と思われる道はNTTや検察庁の敷地となってしまっているようで、北岸をさらに進むことになります。
検察庁の一角に「堂島庁舎跡碑」。
大阪堂島市役所跡
明治22年(1889)、大阪市制発足とともに江之子島に初代市役所が建てられましたが、明治45年(1912)には堂島に移され、2代目の市役所になりました。
大正10年(1921)に中之島の現在地に移転するまでここに存在していました。
桜橋跡碑
蜆川に現在の四つ橋筋に架かっていた橋が桜橋で、堂島アバンザの北側に碑があります。
このあたり、かつて存在した曽根崎川は、別名、蜆川といって、もともとは清流だったのが、毛馬閘門が造られたせいで水が淀み、ジメジメした川となったことから蜆川、あるいは実際に蜆が採れたことから蜆川と呼ばれた川です。
堂島薬師堂
聖徳太子が四天王寺創建時、暴風雨で難破した建築用木材の運搬船が流れ着いたところに堂宇を建てたのが起源と伝わっている。
堂島は明治時代まで堂島川と曽根崎川(蜆川)に挟まれた中州の島で、薬師堂のある島が「堂島」の地名になったと言われる。
戦後、毎日新聞大阪本社の社屋拡張により東方へ移転したが、堂島アバンザ建設にあたり、当地へ復した。
堂内には薬師如来像(室町時代作)のほか、地蔵菩薩像、弘法大師像などが安置され、節分の日には厄払いと鬼追い行事が行われる。
この新地本通には、大阪の町には珍しく電柱がなく、電線の類は地中に埋められ、町並みはすっきりとしている。
バーやクラブ、飲食店の営業店がざっと3000店も密集している北新地。
そのはじまりは、元禄元年(1688)に河村瑞賢が淀川支流の改修工事をおこなった際、堂島川や蜆川の浚渫土砂で「堂島新地」が生まれたことによります。
その後宝永5年(1708)、蜆川の北側に曽根崎新地が誕生しました。
遊女を置く茶屋などがたくさんでき、天保13年(1842)には公許の遊所地となります。
これらの新地の茶屋は蔵屋敷や商家の人々の集う色町として栄え、川に面して座敷があり、物売りの舟や夏には夕涼みの舟が漕ぎ出されたという。
「曽根崎心中」のお初も、「心中天網島」の小春もこの新地の遊女でした。
「曽根崎川跡解説碑」と並んで建てられている木谷蓬吟の「蜆橋銅版標」。
「小春治兵衛の涙川‥‥」で始まり、大近松を称える名文が綴られている。
蜆川跡の解説碑。
この辺りは二『心中天網島』の舞台となった茶屋「河庄跡」の碑があったはずだか見当たらない。
上の写真の木谷蓬吟の「蜆橋銅版標」の後ろに見える自販機の傍らに建てられていた。
治兵衛と小春の道行は、茶屋河庄から始まり、蜆川にかかる橋を次々に渡り、心中場の網島まで続いた。
大阪市が建立した「曽根崎川跡解説碑」と地図の部分の拡大写真。
地図の真ん中の茶色の部分が曽根崎川(蜆川)跡で、現在は「新地本通」という名の道路になっていることが分かる。
蜆川が埋め立てられることになったきっかけは、明治42年(1909)の北の大火(天満焼け)です。
この時、蜆川は焼け跡の瓦礫捨て場となり、 明治45年に上流部分が埋め立てられました。
そして大正13年に残りの部分も埋め立てられ、川はその姿を消してしまいました。
「史蹟 蜆橋跡」の碑。
御堂筋に面した滋賀銀行ビルの一角に埋め込まれている。
この蜆橋は、幕末の1863年(文久3年)6月「壬生浪士組(新撰組)」と大坂相撲の力士と乱闘事件の発端となった場所でもある。
国産ビール発祥の地
市営地下鉄四つ橋線の西梅田駅南出口から 東に300m。
ANAクラウンプラザホテル大阪の北東側に,3本の道路で囲まれた三角形の島がある。その底辺部分に発祥碑と大阪市の教育委員会が設置した説明板が建っている。
説明板によると
国産ビール発祥の地
わが国におけるビールの醸造は幕末に横浜で外国人がおこなっていたが、日本人の手によるものとしては、澁谷庄三郎がこの地で醸造したのが最初といわれている。
当初は大阪通商会社で、明治四年(1871)に計画された。
これは外国から醸造技師を招いた本格的なものだったが、実現には至らなかった。
この計画を通商会社の役員のひとりであり、綿問屋や清酒の醸造を営んでいた天満の澁谷庄三郎が引継ぎ、明治五年三月から、このあたりに醸造所を設け、ビールの製造・販売を開始した。
銘柄は「澁谷ビール」といい、犬のマークの付いたラベルであった。
年間約三二~四五キロリットルを製造し、中之島近辺や川口の民留地の外国人らに販売した。
堂島米市場跡記念碑。
1953年に横江嘉純により製作、台座の字は「濱」を図案化したもの。
堂島米会所(どうじまこめかいしょ)とは、享保15年8月13日(1730年9月24日)大坂堂島に開設された米の取引所。
現在の大阪府大阪市北区堂島浜1丁目にあった。
当時大坂は全国の年貢米が集まるところで、米会所では米の所有権を示す米切手が売買されていた。
ここでは、正米取引と帳合米取引が行われていたが、前者は現物取引、後者は先物取引である。
敷銀という証拠金を積むだけで、差金決済による先物取引が可能であり、現代の基本的な先物市場の仕組みを備えた、世界初の整備された先物取引市場であった。
周辺には各藩の蔵屋敷が立ち並び、大坂が日本経済の中心地として栄えました。
明治2年(1869)に石建米売買が禁止され、さらに明治4年(1871)の廃藩置県で蔵屋敷は廃止されて国有化され、後に民間に払い下げになり、現代に通じる新しい事業所がこの一帯に進出して、大阪の文明開化をリードしました。
露天神社(お初天神)
近松門左衛門の『曽根崎心中』に描かれたお初・徳兵衛が心中を果たした曽根崎の森の天神社です。
ふたりは曽根崎新地の人目を避けるように北へ迂回し、いまの駅前第三ビル、第四ビルの間を抜けてたどり着きました。
神社の起源は6、7世紀、難波八十島祭旧跡の一社で曽根の神を祀ったとされています。
菅原道真公が左遷されたとき(901)に当地で詠んだ「露と散る涙に袖は朽ちにけり都のことを思い出づれば」という歌が社名になったといわれています。
柱には、大阪大空襲時のグラマン戦闘機からの銃弾跡が、生々しい。
太平洋戦争末期に大阪は昭和19年12月以降、20年8月15日の終戦までに、50回を超える空襲を受け、多大の惨禍をこうむったという。
戦闘機の地上射撃は大抵、人や車両を狙って撃たれるものだから、多くの方がこのあたりで亡くなられたのだろう。