熊野御幸記を歩く⑥布施屋~藤白神社

和歌山県
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今回で6回目、いよいよ大阪編の最終回です。
ここには本地仏3体が祀られていてここで熊野へ参ったとする人も多くいるのです。

本日の出発地布施屋、地名の布施屋は、かつてこのあたりの人々が熊野詣の旅人を接待したことに由来します。

先ず川端王子を目指します。
しかし、なんとも無神経な掲示ですね。

川端王子(かわばたおうじ)の旧址は布施屋駅の南西にある。
近世には一帯の氏神であったが、明治末年に近隣の高積神社に合祀された。

しかし、第二次大戦の最中に、頻繁に神社参拝をするのに不便であるとして、旧社地に遥拝所として小祠が建てられた。
江戸時代の銘がある石灯籠2基がある。

導き石。
和歌山市では、町なかの交差点に導き石が埋め込まれていて、道のわかりにくいところは、この石を目印に進みます。

旧中筋家住宅[きゅうなかすじけじゅうたく]は、敷地の東側が熊野古道に面しており、江戸時代末期の和佐組大庄屋にふさわしい屋敷構えを残しています。

嘉永5年(1852)建築の主屋は、三階の望楼、二十畳敷きの大広間や広い接客空間などが特徴で、紀ノ川流域随一の大規模民家です。

川端王子から南西に進み、矢田峠の手前にある石碑の辺りが和佐王子(わさおうじ)の跡地。

「熊野道之間愚記」建仁元年(1201年)10月8日条に「ワサ王子」の名が記されているが、日前國懸宮での奉幣のため別の道をとったため、参詣していない。

矢田峠を目指す。

役の行者の祠を過ぎ、みかん畑の中を登っていくと矢田峠に至り、振りかえると紀ノ川平野の景観が一望できるのもこのコースの魅力です。

平緒王子へ向かう。

和佐王子から矢田峠を越え、導き石にしたがって進んで、伊太祁曽神社へ向う道から分かれ、平尾地区中央の小字王子脇の自治会館の辺りが平緒王子(ひらおおおうじ)の跡地。

和歌山電鐵 貴志川線 猫のスーパー駅長「たま」でお馴染みの貴志川線を越え奈久知王子を目指す。

伊太祁曽神社は我が国に樹木を植えて廻ったと 『日本書紀』 に記される 「五十猛命(いたけるのみこと)」 を祀る神社。
今日はここでお弁当です。

奈久知王子(なくちおうじ、那口王子とも)の跡地には2つの異説がある。
『紀伊名所図会』が伝える跡地は、平緒王子から南に進み、和歌山電鐵貴志川線を越え、西側のミカン畑の中にあり、小祠が祀られている(和歌山県和歌山市須佐3)。

『紀伊続風土記』はここからさらに南に進んで、県道と阪和自動車道を越えた薬勝寺地区にあり、竹やぶの中に小祠が祀られているところを跡地としている(和歌山県和歌山市薬勝寺)。

『和歌山県聖蹟』は後者の説を採り、地名に基づいて「柏原王子」の名で伝えている。

祠が新調されています。

たんぼの畦道を通る近道もあり。

松坂王子(まつさかおうじ)跡地は、奈久知王子から南下し、亀ノ川を渡って県道に突き当たる辺りにある。

汐見峠は削り取られ、切り通しになっています。
左手の畑の中に昔の峠へ通じる径が残っています。

京・大坂から和歌山に入って最初に海が見えた所なのでこの名が付いたそうです。

また「呼び上げ地蔵」は安政2年(1855年)の大地震の大津波に逃げ場を失った人々を、不思議な力で呼び上げて救ったお地蔵さまなのだそうだ。

春日山城は、中世の城で紀伊国守護の城「大野城」の支城でした。

「守護所」というのは、紀伊国の現在の県庁にあたるもので、和歌山県の県庁所在地が昔、ここ海南市にありました。(和歌山市に移る前のお話です。)

知事にあたる守護大名が海南で紀伊国を統治していました。

その守護大名の城が「大野城」です。(近世でいうと、和歌山城にあたります)
この「春日山城跡」からは、守護所跡や大野城跡など大野の里が遠望できます。

松代王子(まつしろおうじ)は、松坂王子から県道を南下して古道に入り、日方川沿いに進んで松代橋の傍らにある説明板と道標を手がかりに、山道に 200メートルほどわけ入ったところに緑泥片岩の石碑が建てられているあたりに比定される。

菩提房王子(ぼだいぼうおうじ)は、松代王子から古道に戻り、春日橋で日方川を越えて蓮花寺を過ぎた会社の脇辺りにある。

この辺りの地名を鳥居と称する。
古くは熊野一ノ鳥居があった場所と考えられており、聖域に入る直前に身を清める潔斎所であったようだが、鳥居は天文18年(1549年)に失われたという。

如来寺裏手斜面にある墓地の中を通り祓戸王子へ向かう。

祓戸王子(はらいどおうじ、はらえどおうじ)跡は、菩提房王子から西へ進み、紀勢本線の線路の手前を南に折れて、如来寺裏手斜面にある墓地の中を通り、頂上を越したところに碑がある。

街道からだいぶ離れた場所にあるが、かつてはもっと街道よりの麓近くにあったといわれ、地元の伝承によれば如来寺の隣地であったという。

ここからは海南の街が見渡せる。

今日の目的地藤代神社に到着、石碑には「これより熊野路の初め」と刻まれた石碑であり、熊野三山の入り口と言われたとされる。

九十九王子のなかでも別格とされた五体王子のひとつ藤代王子の旧址で、「藤代神社」「藤白権現」「藤白若一王子権現」などとも呼ばれた。

中世熊野御幸の盛期には、九十九王子の中でも特に格式の高い五体王子のひとつとして崇敬され、熊野詣の途上における要所であった。

境内にある藤白王子権現本堂は藤代王子を顕彰するもので、祭神の本地仏3体が祀られている。

これらの仏像はもともと藤代王子の神宮寺であった中道寺に祀られていたものであったが、豊臣秀吉の紀州征伐に際して危害が及んだ際に縁の寺院に避難させていたものを江戸時代に復したものである。

明治の神仏分離の際の破棄を免れ今日に伝わっている。

阿弥陀如来 – 家都美御子大神の本地仏
薬師如来 – 熊野速玉大神の本地仏
千手観音 – 熊野夫須美大神の本地仏

の本地仏3体。

右端の画像は木造十一面観音立像 – 藤白若一王子の本地仏、ただ今出張中。

五体王子とは・・・
1.大阪府泉佐野市の「樫井(籾井)王子」、
2.和歌山県海南市の「藤代王子」、
3.印南町の「切目王子」、
4.上富田町の「稲葉根王子」、
5.中辺路町の「滝尻王子」です。


「藤白の 御坂を越ゆと 白栲(しろたへ)の 我が衣手は 濡れにけるかも」 (1675番・詠み人不詳)

訳  下津より海南への 岬の坂を越えると きっと わたしの袖は泪で濡れてしまうだろう。
有間の皇子の悲話を 思い出して。

有間皇子神社、由緒書には、今から千三百年前、孝徳天皇の皇子であった有間皇子は皇位継承を巡る争いの中で十九歳の若さで散る。

政敵であった中大兄皇子が蘇我赤兄を誘って有間皇子に謀反を勧めて、罠に掛かった皇子は釈明のため、白浜にいる斉明天皇の許に赴いた帰路にこの地で殺害されたという。

万葉集には有間皇子の二首が納められている。

芭蕉翁藤塚、もとは祓戸王子社内にあったとされ、芭蕉を尊敬する二夕坊が建立したとされる。
鳥居を入って左側にある。

御歌塚、後鳥羽上皇建仁元年、熊野御幸の際に催された藤白王子和歌会の熊野懐紙が納められている。

後鳥羽院の建仁元年(1201年)の熊野詣の際には藤白の次の宿泊地であった湯浅で歌会が催され、その歌会で詠まれた歌が藤白王子に献納されている。

このときの後鳥羽院らの詠歌が熊野懐紙として3通が残されており、陽明文庫などに所蔵されている。

芭蕉翁藤塚の裏側にあります。

楠の巨木
南方熊楠は、藤白王寺の境内にあるこの社から「熊」・「楠」の字を授けてもらった。

また、兄妹の名前に見える「藤」の文字も子どもが生まれると、この社から授けてもらい神の加護によって無事成長することを祈って命名した。

これは楠の木に対する信仰に由来する。

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