恵方初詣 南南東 闘鶏神社

和歌山県
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今年の恵方は南南東。

まず訪れたのは闘鶏神社、允恭天皇8年9月、熊野権現(現在の熊野本宮大社)を勧請し、田辺宮と称したのに始まる。

白河法皇の時代に熊野三所権現を勧請した。

平安時代末期の熊野別当・湛快のときにさらに天照皇大神以下十一神を勧請して新熊野権現と称し、湛快の子の湛増が田辺別当となった。

二ノ鳥居、講師からは台輪のある鳥居は宇佐神宮と何らかの関連があると説明されたが、調べてみると少し違うようだ。

台輪のある明神鳥居を、特に台輪鳥居と呼ぶ。伏見稲荷などの稲荷神社に多いので、稲荷鳥居とも呼ばれる。

台輪鳥居の特徴

 (1)反り増がある
 (2)島木がある
 (3)貫が柱から出ている
 (4)額束がある
 (5)台輪がある

柱と島木の接続部分に、一枚の台輪と称する座をはめてあります。防腐効果を持たせるためと言われていますが、多分にデザイン的なものでしょう。

宇佐鳥居の特徴の一つにご覧の通り額束がない、しかし、闘鶏神社の鳥居にはちゃんと額束がある。

弁慶は湛増の子と伝えられ、その子孫を名乗る大福院から寄進された弁慶の産湯の釜が当社に残る。

田辺は熊野街道の大辺路・中辺路(熊野古道)の分岐点であることから、皇族や貴族の熊野参詣の際は当社に参蘢し、心願成就を祈願した。

熊野三山の全ての祭神を祀る熊野の別宮的な存在であり、当社に参詣して三山を遥拝して山中の熊野まで行かずに引き返す人々もいた。

拝殿。

『平家物語』などによれば、治承・寿永の乱(源平合戦)の時、湛増は社地の鶏を紅白2色に分けて闘わせ、白の鶏が勝ったことから源氏に味方することを決め、熊野水軍を率いて壇ノ浦へ出陣したという。

このことから「闘鶏権現」と呼ばれるようになり、明治の神仏分離の際に鬪雞神社を正式な社名とした。

2016年10月23日、第40回世界遺産委員会継続会議において、世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に追加登録された。

神木の大楠

大楠は、落雷により中央部を失ったため高さはないが、幹回り、枝振りは見事なもので、樹齢1200年ほどと推測されていまる。
歯病平癒の御利益があるとされ、楠の下に立って楠の葉を患部に付け、祈願すると平癒するとか。

熊楠の妻は、闘鶏神社宮司であった田村宗造の四女・松枝(まつゑ)であり、そうした縁もあり、熊楠は、この闘鶏神社の森を「熊野植物研究の中心基礎点」とした。

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