大和朝廷が七世紀に造った国防城塞 大野城

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斉明天皇6年(西暦660)、朝鮮半島では日本の友好国百済(くだら)が唐(とう)・新羅(しらぎ)連合軍によって滅ぼされました。日本は百済を救うために大軍を派遣しましたが、天智天皇2年(663)、白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗し、日本軍は撤退しました。
 
以後、唐・新羅の侵攻に備えて、国防体制の充実が急がれ、大和朝廷は太宰府を防衛するために、天智天皇3年(664)水城(みずき)を築き、翌年の天智天皇4年(665)には、亡命百済貴族の憶礼福留、四比福夫に命じて大野城を築かせました。

太宰府跡(特別史跡)と背後の山は大野城が築かれた四王寺山、この山全域が大野城である。

7世紀後半、大和朝廷は那の津の官家(みやけ)をここに移し、奈良・平安時代を通して、九州を治め、我が国の西の守り(防衛)、外国との交渉の窓口となる役所(大宰府)とした。

その規模は平城京、平安京に次ぐ大きなものであり、南北22条、東西24坊の都市計画があったという学説がある。

万葉集には”遠の朝廷(みかど)”と詠まれ、その規模をしのばせる立派な礎石が残 り、そこを中心に門や回廊、周辺の役所跡等が整備されて、現在は公園となっている。

南門跡

『太宰府政庁南門跡』 現地案内板より

南門は政庁の南に開かれた正門である。
両側には東西に延びる築地塀(ついじべい)が取り付き、政庁全体を囲んでいた。
要人や外国の使節を応接するのにふさわしい威容を誇っていたであろう。
なお役人の日常の出入りには、築地塀に設けられた脇門を利用していたと考えられる。

中門跡から北を見る、左右に延びるのは回廊。

現在の大宰府政庁跡
大宰府政庁跡の正殿にはシンボルともいえる3基の石碑がありますともに大宰府を顕彰するために建てられたものです。

よく、大宰権帥に左遷され失意にうちに病死・・・と、平安貴族に降りかかる災難がありますが、とんでもない。

あくまでも右大臣や左大臣や大納言などと比べて位が低いだけで、この大宰府は九州一帯を統括し、日本の国防・外交を取り仕切る大きなものでした。

しかし残念ながら大宰府は現在の九州の中心にはなれませんでした。
なぜならばまず、藤原純友の乱で焼き討ちにされ、その後復興を果たしたものの、今度は朝廷そのものの威光が衰え衰退。

当然、大宰権帥の位も名誉職のような形になり、役人も赴任してこず。
そして港湾都市・博多が鎌倉時代に急速に成長。

いつしか人々の記憶からも遠い過去のものとなってしまったのでした。

正殿から大宰府展示館へ向かう、左前方の礎石群は東脇殿跡、右側の丸い礎石は正殿の礎石。

大宰府政庁跡の東にある「大宰府展示館」では、大宰府や周辺史跡の歴史がわかりやすく紹介されています。

大宰府展示館の中、天平2(730)年正月13日、大宰師大伴旅人の邸で梅花を題とする歌宴が開かれた。
その様子を博多人形で再現されている。

大宰府、大野城、水城の位置関係が分かります。
大野城は7世紀に造られた福岡県にある朝鮮式山城で、山全体が城となっている大規模なものです。

さらに、古代の政庁である大宰府を守るため、向かい側の現在基山とよばれる山にも城を築き、間に水城とよばれる長城を築くという堅固な防衛網がありました。

水路の脇には梅が咲いていますがあいにくの雨。
万葉歌碑も見られます。

大宰府政庁跡の南東にある万葉歌碑

あをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は
 咲く花の 薫(にほ)ふがごとく
 今さかりなり

             小野 老(をののおゆ)

大宰府政庁跡北にある万葉歌碑

やすみしし 我が大君の 食す国は
  大和もここも 同じとそ思ふ

  大宰帥 大伴旅人
          万葉集巻六・九五六

四王寺山に来ました、百間石垣を見上げながら急坂を上ります。

百間石垣近望。
折からの雨で足元が滑り歩きにくい。

百間石垣を左に回り込み上部より、百間石垣を俯瞰。

大野城の城壁は土を高く盛り上げた「土塁」で囲んでいるが、起伏の激しい地形のため谷間は土塁でなく石を積み上げたダムのような石塁とし、急傾斜部は石垣を作るなど工夫をこらしている。

この百間石垣の名称は、四王寺川の部分を石塁とし、それに続く山腹部を石垣とした城壁で、長さが180mほどであることから名付けられたものである。

平均4mくらいの高さが残っており、川底部では石塁幅は9mほどある。外壁面の角度は75度前後である。

土塁は尾根に沿って築かれているが、中には尾根を分断する谷間が存在する箇所もある。そのような所では土塁の代わりに石垣を積んで敵の侵入を防いでいた。

大野城の石垣は大石垣、水の手石垣、百間石垣、北石垣、小石垣の計五ヶ所だが、その中で最も有名なのは、やはり百間石垣であろう。

大野城の北口にあたる宇美口に築かれた百間石垣は、大野城の石垣の中で最も規模が大きいものだ。
石垣の内部には栗石を詰めて水はけを良くし、また石垣の下には地下水を逃がす吐水口も設けられていた。

このように大野城では、石垣の排水設備や屯水というトンネル状の排水石組など、水害への対策をいくつか見ることができる。

改めて、百間石垣を見上げる。

大野城は四王寺山の尾根をめぐって土塁を築き、また、土塁が谷と接する部分は石塁を築き、城内には倉庫などが建てられた。

このような構造を持った山城は、百済の山城がモデルとなっているので朝鮮式山城と呼ばれている。

増長天礎石群へ向かう、遊歩道左の土塁は焼米ヶ原から延びています。

土塁上から太宰府市街を見下ろす。

増長天礎石群。
蔵が置かれていたときの基礎の部分だそうです。
ここは今、工事をしている様子。

当地は城の南東部で、太宰府口城門に近い内部土塁のすく内側である。
4棟の高床建物(倉庫)跡が一列に並んで残っている。
傾斜地を利用しているため石垣を作り、上段と下段に区切り各段に2棟ずつ配置している。

下段建物の西側に鏡ヶ池と呼ばれる小窪地がありどんな渇水期でも水が絶えないという、大野城の井戸跡ではないかとも考えられる。
 
増長天という地名は、奈良時代に城の西端部の鼓峰(410m)を中心に作られた四王院に由来するものであろう。

礎石群下段のすぐ西側にある「鏡ヶ池」です。
雨乞いのとき水瓶に入れる水を汲み、終わった後に龍の頭を沈めたという。
(海島社「太宰府紀行」より)

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大宰府政庁跡へのアクセス、行き方歩き方

所在地:〒818-0101 福岡県太宰府市観世音寺4丁目6-1
電話:092-922-7811 古都大宰府保存協会

コミュニティバスまほろば号「大宰府政庁前」下車
西鉄「都府楼前」駅下車 徒歩約15分