堺七まち町家ひな人形めぐり

大阪府
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堺出身の歌人・与謝野晶子の歌に詠まれた「七まち」。
阪堺線「高須神社」から「綾ノ町」停留場付近には戦前からの町家が残ります。

南海電鉄南海本線・七道駅前ロータリーの大和川寄りの高架線路下にあたる場所に「放鳥銃定限記」という高さ3mほどの大きな石碑がありその右側に「鉄砲鍛冶射的場跡」という石碑も建っている。

鉄砲が普及しはじめると銃を使う技術も重視されるようになり、堺においては小濱民部丞嘉隆などの「鉄砲師」が試射場を設けて射撃技術を教えた。
「放鳥銃定限記」はこの小濱嘉隆の顕彰碑である。

鉄砲鍛冶射的場跡碑の前には「堺砲術発祥之地」と書かれた平板状の石碑が埋め込まれている。

和泉堺は紀州根来・近江国友と合せて鉄砲の生産地として有名である。

16世紀に種子島に鉄砲が伝来してから数年後には2つのルートで堺・紀州に鉄砲の技術が伝えられている。
一つは堺の商人・橘屋又三郎で種子島の刀鍛冶のもとに弟子入りして 鉄砲の製法技術を持ち帰り、堺で鉄炮の製造を始めた。
後に「鉄炮又」と呼ばれる大商人となった。

もう一つのルートは,紀州小倉荘領主・津田監物算長が種子島に渡って一挺の鉄砲を入手し、根来に持ち帰った。
刀鍛冶・芝辻清右衛門にこれの複製を命じ、2年後に紀州第一号の鉄炮が誕生した。

芝辻清右衛門は後に堺に移住し、堺は一大鉄炮生産地として知られるようになる。

南海電鉄南海本線・七道駅前ロータリーに建つ河口 慧海(かわぐち えかい)像。

河口 慧海(1866年2月26日(慶応2年1月12日) – 1945年(昭和20年)2月24日)は、黄檗宗の僧侶。
仏教学者にして探検家。
幼名を定治郎という。
僧名は慧海仁広(えかいじんこう)。

中国や日本に伝承されている漢語に音訳された仏典に疑問をおぼえ、仏陀本来の教えの意味が分かる物を求めて、梵語の原典とチベット語訳の仏典入手を決意。
日本人として初めてチベットへの入国を果たした。

また、萬福寺に歌碑が立つ、冬日の萬福寺で紹介しています。
『雪の原雪の蓐(しとね)の雪枕雪をくらひつユキになやめる』とある。
歌の面白味が困難の時に自分の心を慰めたとある。

堺博物館所蔵の河口 慧海画。

清学院は修験道の寺院としての歴史とともに、江戸後期から明治初期には仏典を求めて、日本人で初めてヒマラヤ山脈を越えた河口慧海(かわぐちえかい)も学んだ寺子屋としても知られる国の登録有形文化財。

清学院に飾られるお雛様は昭和50年代製作のもの。

ちょうどこのあたりを紀州街道が通る。
江戸時代に紀州藩主や岸和田藩主の参勤交代路として整備されたもの。
堺では紀州街道が南北幹線となっており、大道筋と呼ばれる。

水野鍛錬所のこの灯篭は、もともと水野さんの蔵に長く保管されていたもの。
新しくガラス部分を張り替え、美しく仕立て直した。

てっぺんにあるオレンジガラスは、七まち町家会の仲間である「七まち びいどろ」さんに作ってもらったそうです。
夜になるとふんわりと灯り、良い雰囲気になるという。

「住の江や 和泉の街の七まちの 鍛冶の音きく 菜の花の路」 与謝野晶子の句碑。

榎並屋勘左衛門(えなみやかんざえもん)家は、江戸幕府の御用鉄砲鍛冶として重用され、芝辻理右衛門(しばつじりえもん)家とともに鉄砲年寄として堺の鉄砲鍛冶の中心的地位だった。

この両家に、分家の榎並屋九兵衛、榎並屋勘七、芝辻長左衛門を加えた五鍛冶が平鍛冶と呼ばれ、他の鉄砲鍛冶を統制していた。
これらの鉄砲鍛冶の技術は、その後、刃物や自転車の製造といった堺の伝統産業の礎となった。

榎並屋勘左衛門作の火縄銃は堺市博物館に所蔵されています。
また、芝辻砲は靖国神社遊就館に所蔵されています。

堺市博物館所蔵の火縄銃(手前)

「どうぞ、お二階へ」と、脇の箱階段を登って、水野鍛錬所4代目ご婦人に案内していただきお雛様を拝見した。
この着物は奥さんの七五三の祝いの時のものをお雛様用に仕立て直した物とか。

榎並屋・芝辻両屋敷跡から北西250メートルほどの所には、鉄砲鍛冶屋敷として堺に唯一現存する井上関右衛門家がある。

内部は非公開だが、江戸時代に全国の諸大名の御用をつとめた鉄砲鍛冶の名家であり、鉄砲(堺銃)に関する多く史料や銃器類の他、日本一といわれる高さ 1メートル、長さ 2メートル余りの吹子が保存されている。

山口家住宅の主屋は現存する数少ない江戸初期の町家のひとつとして、昭和41年(1966年)に国の重要文化財に指定されています。

玄関から見える座敷にはお雛様が。

広い土間に面して畳の部屋が3室並び、土間には梁(はり)と束・貫で構成する小屋組が見られ壮大な空間を作っています。

江戸時代後半に京都では、内裏雛を御殿や源氏枠に飾ることが流行する。
源氏枠とは、御殿の天井・屋根がなく、源氏物語絵巻の絵のように屋内を上からのぞき見るような構造から名付けられた。

同じく環濠集落として交流のあった平野郷の旧家に伝わる雛。
大正時代の作。

江戸時代には「京の着倒れ大坂の食い倒れ」とともに、「堺の建て倒れ」とたとえられたように、堺では建物に贅を凝らしたといわれていますが、この建物はその名残りを示すひとつです。

和泉名所図会 堺包丁店の図(堺博物館所蔵)

鍛冶(かじ、たんや)は、金属を鍛錬して製品を製造すること。
「かじ」は、「金打ち」(かねうち)に由来し、「かぬち」、「かんぢ」、「かじ」と変化した。
この鍛冶を業とする職人や店は鍛冶屋ともいう。

刀を作る職人は「刀鍛冶」「刀工」などと呼ばれる。

包丁の製作過程の順に並べたもの。

16世紀後半、ポルトガルから伝わったタバコが国内で栽培され、タバコの葉を刻む包丁が大量に必要になったために、堺で初めて「タバコ包丁」が作られるようになりました。

その切れ味の鋭さから、江戸時代には、幕府から「堺極(さかいきわめ)」の印を受け、専売品としてその名を全国にとどろかせたのです。

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堺七まち町家ひな人形めぐりへのアクセス、行き方歩き方

南海線・七道駅下車 徒歩約3分 または 阪堺線 綾ノ町駅下車 徒歩約5分