大津皇子が謀反を起こしたとして死を賜った後に、葬られたという二上山。
当麻寺の門をくぐると広々とした境内、正面に二上山が見えます。
あたりは万葉歌碑の宝庫だ。
當麻寺は、奈良県葛城市にある7世紀創建の寺院。
法号は「禅林寺」。山号は「二上山」。
創建時の本尊は弥勒仏(金堂)であるが、現在信仰の中心となっているのは当麻曼荼羅(本堂)。
宗派は高野山真言宗と浄土宗の並立となっている。
開基(創立者)は聖徳太子の異母弟・麻呂古王とされるが、草創については不明な点が多い。
本堂(曼荼羅堂)(国宝)
金堂・講堂の西側に、東を正面として建つ。
梁行6間のうち、奥の3間を内陣、手前の3間を礼堂とし、内陣は須弥壇上に高さ約5メートルの厨子(国宝)を置き、本尊の当麻曼荼羅を安置する。
金堂(重要文化財)
鎌倉時代の再建。
屋根は元は厚板を葺いた木瓦葺きであった。
内陣いっぱいに漆喰塗り、亀腹形の仏壇を築き、本尊の塑造弥勒仏坐像、乾漆四天王立像などを安置する。
金堂では、四天王のうち、広目天(重文・白鳳時代)と多聞天(重文・鎌倉時代)がご不在。
そして、ご本尊の弥勒仏坐像(国宝・白鳳時代)も堂内での修復がはじまっています。
中将姫像
今は昔、藤原鎌足の曽孫である藤原豊成には美しい姫があった。
後に中将姫と呼ばれるようになる、この美しく聡明な姫は、幼い時に実の母を亡くし、意地悪な継母に育てられた。
中将姫はこの継母から執拗ないじめを受け、ついには無実の罪で殺されかける。
ところが、姫の殺害を命じられていた藤原豊成家の従者は、極楽往生を願い一心に読経する姫の姿を見て、どうしても刀を振り下ろすことができず、姫を「ひばり山」というところに置き去りにしてきた。
その後、改心した父・豊成と再会した中将姫はいったんは都に戻るものの、やがて當麻寺で出家し、ひたすら極楽往生を願うのであった。
姫が五色の蓮糸を用い、一夜にして織り上げたのが、名高い「当麻曼荼羅」である。
姫が蓮の茎から取った糸を井戸に浸すと、たちまち五色に染め上がった。
當麻寺の近くの石光寺に残る「染の井」がその井戸である。
姫が29歳の時、生身の阿弥陀仏と二十五菩薩が現れ、姫は西方極楽浄土へと旅立ったのであった。
この話はよほど人気があったようで、世阿弥や近松門左衛門らによって脚色され、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎の題材ともなった。
西塔(国宝)の改修工事が約5か年の大事業で行われております。
仁王門
旧當麻町(たいまちょう)下水管マンホール蓋
二上山と當麻寺の東塔と西塔に旧當麻町の花のボタンが描かれている。
「たいま」「げすい」の表示。 マークは旧當麻町の町章。