六波羅蜜寺 平家一門の邸宅中心地

六波羅蜜寺内には、清盛の祖父・正盛が六道珍皇寺から土地を借り受けて営んだ邸宅・六波羅第跡も残る。
平家一門の館が、ここ六波羅周辺にあり、平家が都落ちし自らの手で焼き払うまで六波羅周辺には2,500を超える邸があったとされています。

境内隅の「水かけ不動」は、源義経が出陣前に勝利を祈願したといわれ、勝負事や受験生がお詣りに訪れる。

醍醐天皇の第二皇子光勝空也上人は、当時京都で流行していた悪病を退散させるため、十一面観世音菩薩を刻み、天暦5年(951年)に堂を建て、この観音像を祀ったとされ、これがこの寺の創始と伝えられている。

空也上人が自ら刻んだ十一面観音菩薩像を車に積んで市中を回って歩いたと言われているが、その十一面観音菩薩像を模して作られたのがこの銅像である。

「えんむすび観音」と呼ばれていて、恋愛だけでなく夫婦和合、友達との絆などすべての縁を結んでくれるという。

64歳で亡くなった清盛は、愛宕にて荼毘に附され、遺骨は摂津国大和田泊の経の島に埋葬したと伝えられます。

阿古屋塚と呼ばれているこの石塔は、台が古墳の石棺の蓋石で、上は鎌倉時代の宝塔。葬送地の鳥辺野の入り口に位置するこのエリアで、下火(あこ)という点火作法が行われていたことから、下火(あこ)⇒阿古屋(あこや)になったのではないかという説があります。

それがいつの間にか歌舞伎の遊女・阿古屋に結び付けられたのかもしれません。
阿古屋とは、平家の侍・悪七兵衛星景清の恋人の遊女であり、歌舞伎の「出生景清」「壇ノ浦兜戦記」の場面「阿古屋の琴責め」に描かれています。

念仏を唱える口から六体の阿弥陀が現れたという伝承を写実的に表しており、右手に撞木(しゅもく)、左手に鹿角杖(ろつかくじよう)、胸に金鼓(きんこ)をさげている。
運慶の四男の康勝の作という。

剃髪し、ゆったりとした衣をまとった僧侶姿で、経巻を手にしています。

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