悲運の歌人 屋越の蓮月こと 大田垣蓮月

カレンダー
2024年4月
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930  

時代祭の江戸女人行列で有名な大田垣蓮月だが、その悲劇的な人生は意外と知られていないのではないだろうか。
蓮月が非常な美人であつたといふことはあまりによく知れ渡つている事実である。
しかし、初めて髪をおろした頃のその美しさはどんなであつたらうと興味深い。

唯一人の頼りとしていた父の死に逢い、住み馴れた庵をも失った。
「このちかきところにあらばやとおもへども、山の上にて人の住むべきところにもあらねば、なく\/かぐら岡ざきにうつりぬ。」
と自らしるしたように、その美しい姿を市井の間にさらさねばならなかつた。

多くの人がひっきりなしに訪ねて来るようになり、その煩わしさから逃れるため京都の方々を転々と引越しを繰り返すことになる。
その後も住居を転々とし、「屋越し」と呼 ばれた。
一説には勤皇の志士との交流があり、幕吏の目をそらすためだったともいう。

お馴染みの時代祭、江戸女人行列の蓮月のあで姿。

行列の発進を待つ蓮月、なかなかの美人です。

大田垣 蓮月(おおたがき れんげつ、寛政3年1月8日(1791年2月10日) – 明治8年(1875年)12月10日)は、江戸時代後期の尼僧・歌人・陶芸家。俗名は誠(のぶ)。
菩薩尼、陰徳尼とも称した。
藤堂藩 伊賀上野 城代家老 藤堂良聖の娘として、京都三本木に生まれる
幼い時に父母に死なれ、知恩院に勤める大田垣光古(もとは山崎常右衛門)の養女として育てられる

養父の光古は因幡国出身で、誠を引き取った当時は知恩院勤仕といえども不安定な立場にあったが、同年8月には知恩院の譜代に任じられ、門跡の坊官として世襲が許される身分となった。
太田垣氏は室町時代に因幡・但馬で栄えた山名氏の重臣の子孫である。
生母は誠を出産して後に、丹波亀山藩の藩士の妻となった。
この生母の結婚が縁で、寛政10年(1798年)頃より丹波亀山城にて御殿奉公を勤め、10年ほど亀山で暮らした。

養父の光古には5人の実子がいたが、そのうち4人は誠が養女になる前に亡くなり、唯一成人まで成長した末子の仙之助も誠が亀山に奉公していた時期に病没した。
そのため光古は但馬国城崎の庄屋銀右衛門の四男天造を養子に迎え、望古と名乗らせた。
誠は、亀山での奉公を終えた文化4年(1807年)ごろに望古と結婚。

誠と望古の間には長男鉄太郎、長女、次女が生まれたが、いずれも幼くして亡くなった。さらに文化12年(1815年)には夫の望古も亡くなり、誠は25歳にして寡婦となった。
望古の死から4年後の文政2年(1819年)、誠は新たに大田垣家の養子となった古肥(ひさとし)と再婚する。

古肥は旧名重次郎といい、彦根藩の石川光定の次男であった。
誠と古肥の間には一女が生まれたが、文政6年(1823年)には古肥と死別した。  
古肥の死後、誠は仏門に入ることを決め、養父光古と共に剃髪した。
剃髪後は、誠は蓮月、光古は西心と号した。

知恩院、女人坂東側に真葛庵の入り口はある、公開時以外は鎖が掛けられており中へは入れない。
見えているのは鎮守八幡宮、右手奥に真葛庵はある。
太田垣蓮月ゆかりの地だ。
蓮月が出家した年に、大田垣家は再び彦根藩より古敦という養子を迎え、知恩院の譜代を継承させた。

その頃、西心は知恩院内の真葛庵の守役を命じられ、蓮月親子と共に庵に移った。
しかしながら、この生活は長くは続かず、二年後には古肥との間の女児が亡くなり、その二年後には養父西心までが亡くなった。
養父の死を期に、蓮月は天保三年(一八三二) に知恩院真葛庵から岡崎に移り、そこに六年ほどいたという。
この期間は生計の道を模索し、土ひねりと出会い、その技術を習得する修行期間であったであろう。

ほどなく蓮月の作品の評判が高くなってくると、後の話しであるが万延元年(一八六〇)頃には蓮月焼の偽物さえ出回ったというから、多くの人がひっきりなしに訪ねて来るようになり、その煩わしさから逃れるため京都の方々を転々と引越しを繰り返しす。
とはいえ、蓮月がいかに引越しを繰り返したとはいえ、その範囲は鴨川の東の地に限られていた。

これは杉本秀太郎氏が指摘されている通り「少しも動かないもの、そのまわりを蓮月が動いているばかりで、まったく位置を変えない中心点のようなものがある。
それは知恩院の裏山にある太田垣家の墓である。
最後に養父西心を葬るまでに、養母、夫の重二郎古肥、そして四人あるいは五人の子供たち、すべて蓮月に先立った見うちの人たちの眠る墓」に参るため、そこからあまり遠ざからないよう蓮月は決めていたのであろう。

知恩院黒門の門前に茶屋がある。
蓮月茶屋、幼くして知恩院の寺侍太田垣光古(てるひさ)の養女となった蓮月ゆかりの茶屋。
江戸時代後期、知恩院に暮らしていた孤高の尼僧、蓮月にゆかり。
豆腐料理を出す。

蓮月は豆腐が大好物だったという。
加茂川で野菜を洗っていたという。
おりたちて朝菜あらへば加茂川のきしのやなぎに鶯のなく」という歌を残している。
湯豆腐のあしらいになった京野菜かも。
暖簾をくぐった左手に板根を広げたムクノキがある。

清閑寺窯
この地は清閑寺焼に限らず、京都の緒窯にとっても大事な場所で清閑寺焼から清水焼が生まれ、続いて粟田焼が生まれたと言われている。
そして、蓮月は岡崎の地で生活の糧として、蓮月焼を造ります。
その住まいは桂園派の創始者であった香川景樹宅近くであったと云います。

粟田焼の中で特に蓮月が造形したものを蓮月焼と称するのですが、粟田焼は今の
蹴上から三条通にかけて、安土桃山時代後期に生まれた陶芸で、京焼、清水焼へ
とつながる焼物でした。

清閑寺へのアクセス、行き方歩き方

住所:京都市東山区清閑寺歌の中山町3 (清閑寺山ノ内町)
電話:075-561-7292
京阪バス 清閑寺山ノ内町 徒歩約10分
清水寺の子安塔から 徒歩15分

醍醐寺門前に悲運の歌人 太田垣蓮月仮寓跡が残されています。
蓮月は33歳で出家して、蓮月尼と称してからは、孤独を求めて、岡崎や西賀茂などを転々と住まいを変えましたが、この醍醐の地もその一つです。

下村家住宅
住宅前に太田垣蓮月仮寓跡が残されています。

隠棲の地神光院の茶室「蓮月庵」
神光院の茶所(茶室 蓮月庵)には、1866年の76歳から、1875年に85歳で亡くなるまで10年間を隠棲した。
蓮月に茶室を紹介したのは同院の月心和上と親交があり、蓮月がただ一人、心を許した明治、大正に活躍した画家の富岡鉄斎。

蓮月が60才の頃、侍童として預かったのが後の富岡鉄斎であった。
富岡鉄斎が姉のように慕った女性の庵が残り梅が咲く季節には素敵な風情となります。
京都でたびたび起った飢饉のときには、私財をなげうって寄付し、また自費で鴨川に丸太町橋も架けるなど、慈善活動に勤しんだ。

神光院太田垣蓮月尼の歌碑。

ただならぬ枕の草に虫鳴ひて秋あはれなるわが庵かな

暮れぬとて帰る家路もそこはかと夏草しげし西賀茂の里

願くはのちの蓮はちすの花の上へに曇らぬ月を見るよしもがな

蓮月

神光院へのアクセス、行き方歩き方

住所:京都市北区西賀茂神光院町120
電話:075-491-4375
市バス 1、9、快速9、37系統「神光院前」より徒歩2分

五条大橋のたもとにある蓮月の歌碑。
あすも来て見んと思へば家づとに手折るもをしき山さくら花
明治元年(1868)一月、鳥羽伏見の戦いで勝利した薩摩、長州の官軍が慶喜追討のため、江戸へ赴こうとする三条大橋での出来事。

馬前に進みて一葉の短冊を差し出す一老尼の姿。
島津久光公の後ろにあった西郷南洲は歩み寄り「そなたは誰ぞ、何の用が
あってのことか」と尋ねます。
老尼は「めでたきご出陣のほど承はり、腰折一首差し上げたいと存じまして…、
私は蓮月と申す尼でございます。」と。
短冊には「あだみかた かつもまくるも
   哀れなり 同じ御国の人とおもへば
」、としたためてあり、繰り返し口ずさんだ

南洲は「よく分かりました、必ずよいように取り計らいますから安心してお帰りなさい、私は西郷吉之助でごわす」と。
東海道を下った官軍は三月十二日に品川に到着、江戸城総攻撃は十五日と決定された。
けれど、歴史で習ったように勝海舟と西郷南洲(隆盛)との会談によって江戸城無血開城が成されたのでした。

蓮月の一首が歴史を変えたとまでは云えないかも知れないけれど、大きな歴史の転換点での、ひとつのエピソードです。

島原大門脇には幕末の女流歌人蓮月尼(1791~1875)が、島原大門の柳を『嶋原のでぐちのやなぎをみてなつかしき  やなぎのまゆの春風に  なびくほかげや  さとの夕ぐれ』と和歌に遺している。

ちなみに、西郷隆盛と蓮月尼の交流についてであるが、これは島原の角屋を舞台に展開されたサロンにおけるものだろう。
西郷隆盛が角屋に出入りしていたこと、島原サロンの中で蓮月尼が重要なポジションにあったことなどは、角屋に残されている調度や短冊などから窺われるらしい。

西方寺の西にある小谷墓地に蓮月は眠っています。
明治八年(1875)、85歳で亡くなりましたが、遺言で「ただ無用の者が消えゆくのみ、他を煩わすな、富岡だけに知らせてほしい」と頼んだということです。

蓮月尼の墓は、桜の老樹の根方に寄り添うようにある。
高さわずか五十センチあまり、瓜のように円い鞍馬石に「太田垣蓮月墓」と一行だけ富岡鉄斎の筆を刻んでいる。
蓮月尼のやさしい人柄が自ずとしのばれる姿である。

クラブツーリズムのお勧めツアーはこちら!

西方寺へのアクセス、行き方歩き方
京都市北区鎮守菴町  
電話:075-492-5889

市バス 1、9、快速9、37系統「神光院前」より徒歩2分

コメント