信玄公が攻略できなかった城 高天神城

東海
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小規模ながら、山城として堅固さを誇り、戦国時代末期には武田信玄・勝頼と徳川家康が激しい争奪戦を繰り広げた。
優美な山の形から鶴舞城の別称を持つ。

高天神城は、山自体が急斜面かつ、効果的な曲輪の配置が施されたことで、堅固な中世城郭となっていた。

かな井戸のある井戸曲輪を境に東峰と西峰に分かれている。
それぞれが曲輪群を持っており、独立した城のようになっていますが、東峰と西峰を合わせて1つの城を形成している。

図中、現在地と書かれた、搦め手口から登攀する。
2月とはいえ温かく、上着を脱いで登る。

北側は搦手であるが、同時に高天神社の参拝道でもある。

急峻な搦手階段と迫りくる断崖、早くも汗ばんでくる。

本丸跡からの眺望。

彼方に富士の雄姿が幽かに認められる。

御前曲輪、太平洋戦争前の時期に模擬天守が建造されたこともあった(戦国時代に天守が建造されたことはない)が落雷で焼失した。

現在はコンクリートの土台のみが残っている。

本丸跡の説明板より
「元亀2年3月武田信玄来攻に備えて、城主小笠原長忠二千騎を以って籠城、本丸には軍監大河内政局武者奉公渥美勝吉以下五百騎と遊軍百七十騎が詰めた。

天正2年5月武田勝頼当城包囲猛攻6月28日激戦7月2日休戦9日開城、城主長忠武田方に降り城兵東西に分散し退去、武田方武将横田尹松城番として軍兵一千騎を率いて入城した。

天正7年8月城兵交代、武田方猛将岡部丹波守真幸(元信)城代として一千騎を率いて入城した。

天正9年3月徳川家康来攻包囲10ヶ月、城中飢えに瀕し22日夜半大将岡部真幸、軍監江馬直盛以下残兵八百、二手に分かれて城外に総突し激闘全滅した。

23日家康入城検視、武者奉行孕石元秦誅せられた。
城郭焼滅廃城となる」

大河内政局石窟

天正 2年(1574) 7月、高天神城が武田軍に降伏した際、大河内源三郎政局(まさちか)だけが武田勝頼の命に服さなかったため、怒った勝頼は、政局をこの石窟に幽閉したという。

しかし、武田方の城番であった横田尹松(ただまつ)は、このような政局の義に感じ入り、密かに厚く持て成したといわれる。

天正 9年(1581) 3月に徳川軍が城を奪回し、政局は解放されるも長年にわたる幽閉生活において歩行困難となっていた。家康公はそんな政局に過分の恩賞を与え、労を労い、津島の温泉で療養させたといわれる。

のちに回復した政局は、天正12年(1584)の小牧・長久手合戦で討死したという。

今では崩落の危険があり、石窟は埋められている。

なんと7年もこんなところに閉じ込められていたなんて。
同じような思いをしながら黒田官兵衛ほどメジャーじゃないのが気の毒なくらい。

井戸曲輪跡にある「かな井戸」。
高天神城は、東の峰(本丸)と、西の峰(西の丸)に分かれた『一城別郭』の城構えとなっている。
その鞍部に井戸曲輪があって、東西の郭を結んでいる。

ニの丸を守った本間・丸尾兄弟の墓碑。

馬場平跡。
かつては城の南側を見張るための番屋があったところと考えられるとのこと。
馬場平跡からは遠州灘が一望できる。

高天神城の戦いには、徳川方、武田方ともに様々なドラマが残されています。

なかでも有名なのが横田甚五郎の脱出劇。

天正9年(1581)の落城の際、武田軍の軍監だった甚五郎は、徳川方の旗を拾って敵の目をごまかして甲斐に戻り、勝頼に落城を告げたといわれています。

その時に通った犬戻り・猿戻りの険道は、甚五郎抜道とも呼ばれ、現存しています。

この道は、西峰の馬場平から続く尾根道で、その険しさに犬や猿でも戻ってきてしまうということから、この名がつけられたといわれています。

高天神城の激戦

今川氏は義元のときに大きく領土を広げるものの永禄3年(1560年)5月の桶狭間の戦いで敗れ、義元自身も討死したために一気に衰退する。

ついに永禄12年(1569年)、今川氏は武田信玄・徳川家康の挟撃にあって滅亡、小笠原氏の当時の当主・小笠原氏興、小笠原氏助父子は徳川家康の家臣となった。

しかし、まもなく武田・徳川両氏は激しく争うようになり、駿河・遠江の国境近くにある高天神城もその角逐の舞台となる。

武田勝頼は偉大な父・信玄の活躍の影に隠れがちですが、国主となった直後は信玄でさえ攻略できなかった高天神城を陥落させるなど、大いに気を吐きました。

この高天神城の攻防戦に最後まで援軍が送れなかった武田勝頼の声望が致命的に低下し、翌年に木曾氏・保科氏など豪族が寝返っていく理由となったといわれ、『信長公記』でもことさらにそのあたりを強調する記述となっている。

ただし、織田信長が籠城側の降伏を拒否するよう家康に指示した書簡が現在残っている。
このことから、籠城側が既に早い時点で降伏の意思を家康に伝えていたにもかかわらず、籠城戦を長期化・劇的なものとすることで、援軍の出せない勝頼の声望を意図的に下げようとした信長の策略だったのではないかとの指摘がある。

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高天神城へのアクセス、行き方歩き方

住所:静岡県掛川市上土方嶺向

JR東海道本線、掛川駅下車、北口からバス40分「高天神入口」降車、徒歩20分。