今熊野観音寺

京都府
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鳥居橋

参拝するのに、泉涌寺参道から左に折れて観音寺に入ると、真っ先に目を引くのがこの赤い橋「鳥居橋(とりいばし)」。

観音寺と泉涌寺の間の谷を流れる川を今熊野川といいますが、その川を越えるのが鳥居橋です。

古くからこの地には熊野権現社が鎮まっていたので、橋の名前の由来となったとも言われております。

今熊野観音寺は、京都市東山区泉涌寺山内町にある真言宗泉涌寺派の寺院。

総本山泉涌寺の塔頭。
山号は新那智山。
本尊は十一面観世音菩薩

正式な寺号は観音寺である
西国三十三所第15番札所。

空海が唐で真言密教を学んで帰国した翌年にあたる大同2年(807年)、東山から光が出ているのを見つけた空海は、不思議に思って当地にやってきたところ、老人の姿をした熊野権現が現れた。

熊野権現は空海に天照大神御作の一寸八分の十一面観音菩薩像を手渡してこの地に一宇を建ててこの観音菩薩を祀り、衆生を救済するようにと言った。

山中に建つのは医聖堂

本堂東側の山上にひときわ高くそびえ立つ平安様式の多宝塔です。

医と宗教がともに手をたずさえて、人類がともに明るく健康に暮らせるような社会が築かれますよう、との住職の願いを込めて建立致しました。

この「医聖堂」には医界に貢献された多くの方々が祭祀されています。

平成28年、丹塗りの塗り替えが施され、33年ぶりに鮮やかな朱色が蘇りました。

塔の足元にある石碑には「杉田玄白」、「華岡青洲」、「緒方洪庵」など偉人の名前がズラリ。
医学部を目指す学生の合格祈願の対象にもなっています

空海は自ら一尺八寸の十一面観音菩薩像を刻み、授かった一寸八分の像をその体内仏として中に納め、熊野権現の言うようにこの地に一宇を建てて奉安した。

これが当寺の始まりであるとされる。

平安時代後期になると、紀伊国熊野の熊野三山に対してこの地を今熊野と称し、白河法皇の時代には今熊野修験の中心地として栄え、寺名も東山観音寺と呼ばれるようになる。

後白河上皇は熱心な熊野三山の信者であったが、紀伊国熊野の地は遠く、気軽には参詣できないために今熊野と呼ばれていた当地一帯に目を付け、永暦元年(1160年)に当地に新たに熊野権現を勧請し、当山の本尊をその本地仏として定めたうえで「新那智山」の山号を授けて東山観音寺を観音寺に改め、山麓に新熊野神社をも造営した。

鳥辺野の南西の地(鳥戸野)は、古くからの貴族の葬地であったが、当寺がその葬地をつかさどっていた。

そのため貴族の葬儀や法要の多くを観音寺は行っている。
後堀河天皇の観音寺陵は、当寺の東南に隣接している。

後白河上皇は持病である頭痛を当山の観音菩薩によって治してもらった。

この出来事以来、一般の人々からも頭痛封じの観音様として尊崇されるようになった。

ぼけ封じ観音

大師堂の前に立たれる観音さまが、「ぼけ封じ観音」。

私たちをとりまく心や身体のぼけを取り除いて下さる観音さまです。

大師堂

当山を開創された弘法大師をお祀りしているお堂です。
東山大師と呼ばれ、大師信仰の方々のお詣りが絶えません。

不動明王、愛染明王、また当山の伽藍を寄進建立された左大臣藤原緒嗣の像もお祀りされています。

五智水

当山を開かれた弘法大師が、熊野権現の御霊示にしたがい、観世音をまつるのにふさわしい霊地を選ぼうと、錫杖をもって岩根をうがたれると霊泉が湧き出しました。

大師はこの清涼なる清水を観音御利生の水として崇められ「五智水」と名付けられました。

爾来今日に到るまでこんこんと湧き出し、私たちに深き恵みの水をお与え下さっています。

清水焼の窯元「陶葊(とうあん)」の土塀
芸術作品のようなデザインが印象的です。

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