今庄宿散策と越前そばの店

北陸
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今庄宿は、古くから幾重にも重なる南条山地は北国街道・北陸道の難所であり、山中峠、木の芽峠、栃ノ木峠、湯尾峠のいずれかの山越えの道を選んで今庄に至り、京または江戸へ行き来する人々が宿泊した宿場町です

北陸線の普通列車は2両編成の列車が1時間に1本あるのみ、乗り遅れたら大変です。
それと、ほとんどの駅には朝夕のラッシュ時以外、駅員は一人もいなくて完全無人です。

今庄宿の入り口、正面に「今庄宿入り口」の案内板があります。

20mぐらい東に進み、道路を右折(南行)します。
入り口は枡形(ますがた)になっていました。

ただ、いただいた地図には「枡形」ではなく「矩折(かねおれ)」と書かれています。
「宿場全体を見通すことができない構造になっていた」のです。

ここにも矩折があります。

今庄は日野川上流、山間の盆地で、東・南・西の三方を山々に遮られ、北方だけが開けた県内屈指の豪雪地帯である。
 
国道365号線(別名北国街道又は東近江路)は天正6年(1578)、北の庄(現福井市)城主柴田勝家が信長の居城である安土城参勤のため、栃の木峠を通る道の道幅を広げ改修したものである。

北陸と京都を結ぶ道は、古代には万葉の道で「山中峠越え」であったが、平安初期には「木ノ芽峠越え」(西近江路)が開削され、そして戦国時代には前述の北国街道が整備された。

以降、京都より北陸に向かうには、木ノ芽峠越えの西近江路か、栃の木峠越えの北国街道を通るのであるが、これらの道は今庄で合流し、今庄は北陸への玄関口にある宿場として多いに発展した。

江戸時代前期の天和3年(1683)で240軒、幕末の天保年間(1830~1844)の記録では戸数290軒、人口1300余人で、旅篭屋55軒、茶屋15軒、酒屋15軒などで、他に問屋3軒や伝馬所、高札場などがあった。

江戸時代の旅人は、一日に男性は10里、女性は8里を歩いていました。
福井から今庄までは約8里の距離で、早朝に福井を出発した旅人は、その日は今庄宿に宿泊するのが普通でした。

モータリゼーションの現代、この場所はカーブミラーだらけです。
写真の美観としてよろしくない。

古町の中ほどにある旅館の先にある民家の前に、案内板がありました。
「御札場跡、旧西尾茂左衛門家」です。

御札場(おふだば)は、藩札を金銀に両替する場所でした。
案内によれば、寛文4(1664)年、福井藩4代藩主、松平光通(みつみち)のとき、福井藩は幕府から、銀兌換の藩札を発行することを認められました。

藩は藩札の使用を強制しましたので、藩札を金銀に両替する御札場が設けられたのです。

京藤甚五郎家(内部見学は要申込み)は、赤みの強い越前瓦の屋根と卯達が、ひときわ異彩を放っている。

2階部分には袖うだつがあります。

脇本陣格の格式を誇る建物で、内部には橘曙覧(たちばなのあけみ)や岩倉具視の書が残されています。

また、水戸の天狗党が上洛のとき宿泊し、造り酒屋だったこの家の酒で風呂をわかして入浴したともいわれています。

京藤家の向かいは、今庄に4軒残る造り酒屋の一つ、堀口酒造の建物があります。
「鳴り瓢(なりひさご)」の銘柄で知られています。

大野屋は他に右衛門佐・谷屋とともに問屋を務めた。

堀口酒造の向かいは「旅籠わかさや」です。
江戸時代、一般庶民が宿泊した旅籠、食料を持参し薪代を支払う木賃宿でした。

ここも、京藤甚五郎家と同じ天保11(1840)年頃に建てられたといわれています。
昔は、屋根は榑板(くれいた)で葺いてあり風で飛ばされないように石を載せていたといわれています。

「榑板」とは、カラマツやナラ、クリなどの丸太を木目に沿って同じ厚みと長さの板に裂いて加工したもので、「榑(くれ)」ともいわれたそうです。

平成22(2010)年、解体寸前だったところを保存、修理されたそうだ。
このあたりは仲町で宿場ゆかりの建物が多くあったところです。

旧街道の右側に、公園がありましす。
大庄屋、後藤覚左衛門の屋敷があったところです。

後藤家は、享保3(1718)年、福井藩の本陣となりました。
屋敷の間口は10間(18m)、奥行37間(67m)、建坪100坪の規模だったといわれています。

今庄の標準的な家屋と比べて格段に大きいことがわかります。

本陣跡の向かいにあったのが、脇本陣の北村新平家跡。
脇本陣は本陣に準じるもので、本陣が使用中の時に使われますが、加賀藩が利用したので「加賀本陣」とも呼ばれていました。

ちなみに、北村新平は、先に屋敷跡があった西尾茂三衛門家がつとめる以前に、藩札と金銀を両替する御札場(おふだば)をつとめていました。

脇本陣の隣には昭和会館がありました。
昭和5(1930)年、本陣跡を整備した田中和吉が私財を投げ打って社会教育の拠点施設として建てたものです。

昭和30(1955)年からは今庄町役場として、昭和62(1987)年に改修されてからは公民館として使用されています。

明治殿は、北陸街道の宿場町として栄えた今庄宿にある。
明治になると廃れてしまった宿場町が多い中、今庄には鉄道が通り、近代以降も交通の要衝として活気にあふれた町であった。   

現在、明治殿が建つ場所は、江戸時代に福井藩の大庄屋で、本陣でもあった後藤家の屋敷地であった。

明治11年に明治天皇が北陸地方を巡幸された際には行在所(あんざいしょ)となった。

その後、後藤家は他所に移ってしまったが、地元の田中和吉氏によって、敷地内の整備が行われ、昭和7年、明治天皇の行在所を再現した明治殿が建てられた。

木造平屋建、屋根は入母屋造銅板葺で、前方に唐破風の向拝を設ける。
桁行7.6m、梁間6.5m。内部中央に、明治天皇が利用したという10畳の座敷が再現されている。

御札場は、最初は北村太平家がつとめていましたが、その後、北村新平家がつとめ、続いて、西尾茂左衛門家が享保15(1730)年までつとめました。

ここは、その西尾茂左衛門の家があったところです。
茂左衛門の後は、北村善六がつとめたそうです。

この辺り左側にあった高札場跡、高野伝六家跡です。
民家の手前の駐車場に案内がありました。

幕府や福井藩が、板に禁令を書いて掲示して守らせましたが、その掲示場所、高札場があったところです。

燧ヶ城登山口。

北陸道が通る今庄の燧ヶ城は、中世のはじまりからその終焉までを見届けた城である。

治承3(1179)年11月のクーデターで院政を停止し、権力基盤を万全にしたかに見えた平氏であるが、古代荘園制度の社会的な矛盾が表面化する中で、中央と地方の対立は先鋭化していた。

治承4(1180)年以仁王、源頼政らが反平氏の狼煙をあげると北陸地方も動乱に巻き込まれる。

寿永元(1182)年になるといち早く挙兵した木曽義仲の影響が越前にも及んでくる。
このため翌年3月、平氏は総力を挙げ義仲追討軍を編成し、4月に数万の大軍で京都を進発、二手に別れ越前に進攻した。

主力軍は敦賀から木ノ芽峠を越え、別軍は栃ノ木峠を越え今庄に迫った。

これに対し、平泉寺の長吏斉命らに越前・加賀の利仁流藤原氏勢力を加えた反平氏軍は、今庄の西方の藤倉山東端の愛宕山(260m)に燧ヶ城を構えた。

この地は四方を山に囲まれ、麓は日野川と鹿蒜川が流れる天然の要塞であった。
反平氏方は川を堰き止め追討軍の渡河を防ぐ戦術に出たが、平泉寺の長吏斉命らが平氏に内通したため4月27日落城した。

平氏の義仲追討軍は、この後北陸道を北上するも越中国砺波山の倶利伽羅峠の戦いで敗北、勝利した義仲軍は各地の武士を糾合し破竹の勢いで京に進軍した。

その後この城は、南北朝の抗争、一向一揆と織田軍との抗争など室町・戦国期でも使用され、現在残る遺構はこの時期のものと考えられる。

「義仲の寝覚めの山か月かなし」の芭蕉の句が残る。

宿場の街道は小さな屈曲を繰り返しながら、緩いカーブを描いて通り、枡型に屈折し、遠見遮断の道になっている。

旧街道の右側に、平塚屋跡がありました。
問屋と脇本陣をつとめていました。

嘉永4(1851)年から右衛門佐に替わって、大野屋、谷屋とともに問屋をつとめた。
塀の中は更地になっていて、土蔵だけが残っている。

上町にあった白駒(はくこま)酒造。
三方を山で囲まれた今庄は、周囲の山々からの湧き水や地下水が豊富で、米どころ福井の酒米にも恵まれていました。

しかも、雪で覆われる冬は気温がほぼ一定に保たれるため、酒造りには適していました。
「越前糠杜氏(えちぜんぬかとうじ)」の技術とそれを支える蔵人の力で醸造が行われてきました。

随所に違法な路上駐車が目立ちます、観光振興のためにはもう少しマナーの向上を図るべきだろう。

江戸時代から伝わる甘露梅肉で有名な高野由平商店。
奈良で食べられていたものが旅人によって伝えられた茶飯もよく知られています。

約1kmにわたって続いた街道も西のはずれです。

裏から見た白駒酒造。
奥行の長い街道筋らしい建物です。

いよいよ念願の越前そばです。

今庄には、「蕎麦ふるさと」「忠兵衛そば」「真琴」「おばちゃんの店」「今庄そばの里」と6店のそば屋があるが、今朝から歩き疲れており、一番近い忠兵衛そばにした。

福井県内でも名を馳せた有名店だがご主人が亡くなってからはどうかとネットの書き込みにあった。

趣のある玄関を入ると、左側にに調理場とカウンターがあり右側が4人掛けに区切られた座敷が4席と大き目の座敷が二つ、大きい座敷には囲炉裏があり熊の毛皮が敷かれている。

メニュー、盛りが少ないので一人2~3枚食べるそうだ。

人気のセットメニュー、NO2のおろしそば+山かけそばをオーダーしたが、もうたまごが品切れということで、NO3のなめことろろそば+おろしそばにした。

蕎麦湯のの見方も説明してある、そば湯はドロッと濃くてうまかった。

これがオーダー品、なるほど少なめだ、3口ぐらいの量か、これで1400円は少し高いかな。
色は濃いめ、挽きぐるみのようですな。

おろし蕎麦は蕎麦の風味がたっぷりと感じられるいい蕎麦だ。

カウンター席の後ろには別メニューが、一杯やりたくなったがぐっと我慢。

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今庄宿へのアクセス、行き方歩き方

南越前町今庄総合事務所 0778-45-1111
今庄町観光協会 0778-45-0074

JR今庄駅から徒歩5分/北陸自動車道今庄ICから車で10分