八木西口駅からガードをくぐり蘇我橋を渡ったところが今井町。
橋のたもとに残る大エノキ。樹齢400ン十年とか。
天文年間(1532~55)、本願寺の今井兵部によって建てられた称念寺が、今井町の起こりと言われています。
農民などを門徒化し、ここを拠点に一向宗の布教を進めるためでした。
[歴史ある伝説の地には井戸がつきものですが、江戸時代の景観が今も残る今井町入口にも井戸がありました。
飛鳥川の畔、蘇武橋を渡った所にある蘇武の井。
蘇武の井の解説パネル
『かつて、蘇武井からは良質の水がこんこんと湧き出てき、今井の里の千軒の家々がこの水を毎日汲んでも、またいかなる日照りが続いても、涸れることはなかったという。
庚申の右手に石碑が立ち、「今井ソンボの朝水汲みは桶がもるやら涙やら」と歌の一節が刻まれている。
今井蘇武の朝水汲みは、桶から漏れる水と自分の涙で、襦袢や片袖がみな濡れたという意味だそうな。
朝水汲みの厳しさが伝わってくるような歌である。
この付近は昔の高市郡遊部郷にあたる地域で、飛鳥川も遊部川といい、蘇武井のある付近は”遊部の岡”とか”あそふ岡”と呼ばれていた。蘇武または尊坊は、”あそぶ”がなまって、”アソブベ”の上・下音アとベを省略した語であるとする説がある。
文明15(1483)年に書かれた聖徳太子伝玉林抄という書物では、「太子斑鳩より蘇武蘇武の橋を渡り、八木の里を経て橘京へ通う」と書かれているそうで、また、聖徳太子が水を飲まれたとも、愛馬の黒駒に水を与えられた井戸とも伝えられている。』
この頃、天下統一を狙っていた織田信長と一向宗は敵対しており、各地で一向一揆が起こっていました。
今井町も濠を深くし、厳重武装で反抗していましたが、本願寺の降伏に伴い、交流の深かった堺の豪商や明智光秀のとりなしで武装放棄しました。
その後は、商工業都市として発展。俗に、「今井千軒」「海の堺 陸の今井」と呼ばれるほどになっていきました。
また、経済的に豊かな町民は、茶道などの文化・文芸にも従事し、華道・能楽・和歌・俳諧などが好まれ、各地との交流も盛んになりました。
豊臣秀吉が、吉野詣での途中に今井の茶室で接待されたという記録もあります。
条里制の基幹線である中街道 (下ツ道)は八木町の札の辻、井戸の辻、醍醐辻を南北に走り、醍醐辻を西に延長していくと、今井町の本町筋に合致し、今井町を形成計画していく上での中心線となっていて、ほぼ長方形の区域の中に東西南北方向に方眼状に道路を配し、町並みや街路の形状は町造りの始められた頃の区画が今も残っている。
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細く入り組んだ道が縦横無尽に張り巡らされた集落だけに、防災に対する意識も高いのでしょう。
旧米谷家や音村家のある通り沿いに「中町筋生活広場」という防災拠点が設けられていました。
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