かつては秘境と言われた球磨川上流の町にある 人吉城

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人吉城(ひとよしじょう)は熊本県人吉市麓町にある平山城跡。

相良氏が鎌倉時代に地頭として人吉荘に赴任して以来35代670年の長きにわたり在城し、江戸時代には人吉藩の藩庁であった。
国の史跡に指定されている。

先ずは人吉城歴史館で情報を仕入れます。
日本100名城スタンプはここ歴史館にある。

人吉城歴史館の前に広がる大台所跡・御厩跡。
江戸時代中頃の『人吉城大絵図』によると、球磨川と後口馬場に挟まれた区域の東部は、大台所や御厩になっていました。

人吉城跡では、井戸のある地下室が二つ発見されています。
一つは 「人吉城歴史館」 の中庭にある地下室遺構で、二つ目はこの大井戸遺構です。

相良内蔵助は、人吉藩の家老相良清兵衛頼兄(犬童頼兄)の子です。

清兵衛門跡
相良清兵衛は関ヶ原の戦いの際、西軍に味方し大垣城に籠城していた主君相良頼房に東軍に寝返るように進言し、相良氏の存続を成し遂げるなど功績がありましたが、専横の振る舞いがあるとのことで初代頼房の遺言により、2代藩主頼寛の訴えにより寛永17(1640)年江戸に召還され、津軽に流罪となりました。

幕末に築かれた石垣の一部には、ヨーロッパの築城技術である槹出工法(はねだしこうほう)を応用した「武者返し」と呼ばれる独特の石垣がある。

この武者返しは城壁最上部に平らな石がやや突き出して積んであり、ねずみ返しのように城壁越えを阻止すると共に、割合簡単に落下させられるようになっており、城壁に張り付いた敵への攻撃にも使えるようにしている。

この城壁は日本の城では他に函館の五稜郭と鶴岡城にしかない(城以外も含めればお台場にも見られる)珍しいもので、いずれも人吉城の石垣程の規模ではない。

歩道にはカラータイルによる案内も。

間米蔵跡(あいだこめくらあと)
水ノ手門西側に建っていた。水の手門周辺には他に大村米蔵、欠米御蔵がある。

間米蔵は、間村の年貢米を納めたと考えられる蔵である。
床束(ゆかづか)の礎石が残っている。

奥側は水ノ手門跡。
右の石垣は、はねだし石垣。
ここでも 手に持たずにさせる折りたたみ傘 肩ブレラが大活躍です。

水ノ手門跡
球磨川に面して築かれた人吉城内に入る4ヶ所の門の一つで、水運のための門であったことからこの名が付けられた。

水の手門外にあった舟着場は年貢米の搬入などに使われていた。
人吉城には川へ下りる出入り口が6か所設けられており、「川の城」であった。

水ノ手門跡を球磨川側から見る。

人吉城は市内中央部を流れる球磨川の南側に位置し、球磨川とその支流胸川の合流点の山に築かれており、北側と西側は球磨川と胸川を天然の堀とし、東側と南側は山の斜面と崖を天然の城壁として、巧みに自然を利用している。

御下門跡(おしたもんあと)
御下門は「下の御門」とも呼ばれ、人吉城の中心である本丸・二の丸・三の丸への唯一の登城口に置かれた門である。

大手門と同様の櫓門形式で、両側の石垣上に櫓をわたし、その中央下方を門としていた。門を入った奥には出入り監視のための門番所があった。

御下門を上がると中の御門跡に出る。小規模ながら枡形となっている。

二の丸跡から三の丸跡を望む。

築城の際、三日月型の模様の入った石が出土した。
このため、この城の別名を「繊月城」「三日月城」とも言う。

奥に見えるのは本丸跡への階段。

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは当初は石田三成方(西軍)に付き伏見城などを攻めるが、本戦で石田方が敗れると徳川方(東軍)に内応し戦功を挙げ、徳川家康より2万2千石の領地を安堵された。

本丸跡
本丸は、はじめ「高御城」と呼ばれていた。

天守は建てられず、護摩堂が建てられた。
礎石群は、板葺きで4間四方の二階建ての護摩堂跡。

広大な本丸跡。

明治4年(1871年)廃藩置県により廃城となった。
明治10年(1877年)に起こった西南戦争では西郷隆盛軍の拠点となり戦闘が行われた。

この際に幕末に再建された建造物も全焼したが、焼け残った堀合門が市内の民家に移築され現存する。

本丸跡から三の丸へ向かう。

御館に使われたと思われる 「居石」 。

力石
第21代相良頼寛の家老・相良清兵衛は主君の22,000石に対して8,000石をも領していた権力者で専横の振る舞いが多く相良家ではこの権力と実力を制しきれず幕府に対して九ヶ條の罪状をあげて訴え出た。

江戸幕府では早速清兵衛を呼び出した。
清兵衛出立後、その留守居をしていた清兵衛の義理の子・田代半兵衛はこの主君の仕討ちに不平を抱き反抗したので藩では彼の屋敷を焼打ちにし、一族は討死した。

これを『お下の乱』という。

その時、城内に火の手があがったのを見て、城下の士卒は驚いて駆けつけたが大手門が固くとざされ開かなかったため犬童三之丞という人が近くにあったこの大石で門を打ち破って入り、主君の安否を気遣ったというこの石を『力石』という。

幸野溝開さく者 高橋政重領徳碑

幸野溝は、今から309年前、当時の相良藩にとって財政のたて直しのため新田開発が極めて重要な問題であった。
そこで元禄9年(1696)相良藩主の命をうけた相良藩士高橋政重(当時47才)は、幸野溝開削に着手し、幾度の困難に直面したが、10年を経た宝永2年(1705)政重と村人たちの血のにじむような努力によりついに「幸野溝」は完成した。

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人吉城へのアクセス、行き方歩き方

住所:熊本県人吉市麓町
電話:0966-22-2111

JR肥薩線 人吉駅 徒歩約10分