多くの文化人が憩った志賀直哉旧居

奈良県
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白樺派の文豪「志賀直哉」が昭和4年から9年間住んだ旧居(敷地435坪、建物134坪)が奈良にある。

この高畑裏大道の一帯は、東は春日山の原始林、北には春日の社を透して飛火野の緑の芝生が展開するという、静かな奈良の町の中でも特に風光明媚な屋敷町で、新薬師寺や白毫寺にも近いという土地柄から、やがて多くの文化人がこの家に出入することになる。

学校法人奈良学園は、昭和53年6月24日に厚生省社会保険庁所有のこの邸を買収した。
この邸は、厚生年金「飛火野荘」として使用されていたが、文豪志賀直哉が自ら設計し、京都から数奇屋大工を呼んで新築、昭和4年から昭和13年まで居住した。

志賀家から提供を受けた資料等によって志賀直哉が建築した当初の姿に修復しあわせて庭園の整備も行った。
資料等については、志賀直哉の遺言並びにご遺族の意思によって展示を見合わせた。

志賀直哉旧居の入口部分。
敷地面積1,437平米(435坪)、建物は443平米(134坪)という広大な邸宅です。

建物の内部をグルリと一周できるだけではなく、お庭にも降りられますので、自分の靴はビニール袋に入れて持ち歩くシステムになっている。

ここが、志賀直哉の書斎です。
数奇屋作りの書斎はわざわざ京都から名大工を呼んで作らせたようです。
ほとんどが当時のままで、あの「暗夜行路」はここで完成しました。

住居の北側に位置し日陰であるが、日差しの変化が少なく落ち着く。
窓から庭の樹木を通して御葢山、春日山、若草山等が眺望できる。

部屋の天井は数奇屋風で葦張り、すす竹、なぐりのはり等の調和がすばらしい。
書斎西隣の納戸(6畳)を書庫にした。

書斎へは関係者以外、子どもたち等も入ることを禁止した。
ここは夏の間に使っていた書斎で、普段は二階の書斎を使っていたようです。

2階にある書斎。
窓は南向きです。
和室になっていますので、ここで文机などを出して執筆していた。

夫人の居間
日当たり良く台所・客間と子供の部屋との中間に位置し、健康的であると共に能率的である。
女性向きの数奇屋風の部屋で、床の間廊下側は半月形の竹を入れてで優美だ。

茶室について
白樺派の精神を生かしたと言われる6畳の茶室である。
古い伝統にこだわらないで造ったと言う。
にじり口は、障子3枚で大きい。

中央に炉が切ってある。
天井は数奇屋風で各区画の造りが異なりとても優美である。
建築を請け負った数奇屋大工 下島松之助が精魂込めて造った。

洗面所は、取り壊されていたが、今回の復元工事で元の場所に元の形で設置された。
お風呂は現代では珍しい角型の五右衛門風呂。
もちろん使用可能。

食堂は9.84坪(約20畳)。
白壁の天井、珍しい赤松の長押(なげし)、大きな牛皮張りのソファーなど数奇屋風、洋風、中国風を調和させ、 美しくモダンな造りになっています。

ひっきりなしに訪れる来客はここで家族と一緒に食事をした。
また、子供たちの娯楽室でもあった。

ここが有名な高畑サロンと言われるところ。
文化人や画家などの憩いの場となっていたようです。

食堂とサンルームについて
食堂(左)は9.84坪(約20畳)。
サンルーム(右)は7.45坪(約15畳)。

常に直哉を慕い集る多くの客を接待した場所であった。
来客と共に家庭でも使った、食事はいつも家族と来客といっしょだった。
数奇屋風と西洋風と中国風を調和させた美しい部屋です。

家屋の裏側にある広い芝の庭、左がサロン。

中庭、茶庭でもある。
この庭に面して茶室。

前庭への道、左の塀の中が茶庭。

池では自然の営み、モリアオガエルの産卵が見られるという。
モリアオガエルは、普段は森林に生息するが、繁殖期となる4月から7月ごろにかけて池などに集まる。

卵は水面に伸びる木の枝などに産み、1、2週間でふ化。オタマジャクシは泡の中から水面に落下していく。

志賀直哉旧居を辞すると、そこは広々とした飛火野だ。

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志賀直哉旧居へのアクセス、行き方歩き方

所在地:奈良市高畑町1237-2
連絡先:0742-26-6490 (TEL&FAX)

JR・近鉄奈良駅より
奈良交通市内循環バス「破石町」下車徒歩5分