早春 桂離宮に遊ぶ

京都府

早春の一日、桂離宮を訪ねた。今にも春雨の降り出しそうな危うい天気だ。

穂垣は表門から通用門までの間に伸びる垣根。
頂部を斜めに削いだ竹の柱を等間隔に立て、間を穂竹でつないである。

一般参観者は南西にある通用門から出入りする。

待合室から出て、庭に向かって歩き出すと、通路の奥に背の低い松が植えられている。

この松は「住吉の松」といって、外からやってきた訪問者から、庭の内部を隠す目隠しとして植えられた。

ここで隠されることで、あとで見ることができる景色への期待が膨らむ。

御幸門、表門を入って真っ直ぐ進んだところにある。
後水尾院の行幸に備えて建てられた。

切妻造茅葺の素朴な門で、格式の高い四脚門ではなく、棟門形式とする。

門の手前脇にある方形の切石は「御輿石」と称し、天皇の輿を下す場所だという。

これが桂離宮の表門。
特別な客を迎える正門となる。

ひのき丸太の掘立て門柱、竹の扉と塀、質素・素朴です。
門越しには、森しかみえません。
門を開けると、はじめて長い直線路の先に小さく御幸門が見えます。

御幸門、柱と桁には皮付のアベマキ材を使用する。

茶室松琴亭の待ち合い 御腰掛前にある蘇鉄山の蘇鉄は冬支度。
防寒のため菰をまかれます。

外腰掛から見た蘇鉄山は向こうの美しい景色を見せず期待感を膨らませるための目隠しになっています。

薩摩島津家の寄進。

外腰掛と蘇鉄山の間には 幅約90センチ 長さ17メートル近い長い延段が南北に伸び 切石と自然石を交えた作りは 御輿寄前庭畳石の「真(しん)の延段」に対して 「行(ぎょう)の延段」と呼ばれています。

もう一つ 笑意軒の前面にある自然石のみで作られた「草(そう)の延段」と合わせて「延段の真・行・草」と言われ 見所の一つに数えられます。

散歩中のベンチ(腰掛)であるが茅葺寄棟つくりの深い竹天井の吹き放しである。

雪隠付きの腰掛とは手が込んでいる。
腰をかけて前面の蘇鉄の山を見る趣向である。

写真は腰掛の天井を仰いだ。

延段の北端には 桝を二つ重ねたような二重桝形手水鉢があり 秋の刈り入れを意味する月波楼の「鎌型手水鉢」に対して 冬の性格を持つ松琴亭の待合として作られた外腰掛にある桝の形は 収穫を量る晩秋を象徴するものと解釈されています。

庭園のオオスギゴケ、雨模様の天候にマッチ、とてもきれい。

松琴亭は、池の東岸、間に小島を挟んで対岸の古書院と向かい合う位置にある、茅葺の田舎家風の茶屋である。

建物は池に突き出た半島状の部分に位置してほぼ北面し、南を除く三方が池に面している。

州浜(すはま)黒く扁平な石が敷き詰められ池に突き出し,先端に灯籠を据えて岬の灯台に見立てて海を演出しています。

石橋(いしばし)白川橋(しらかわばし)ともいわれていますが,松琴亭へは,この一枚橋でつながれています。

松琴亭、二の間と違い棚。

松琴亭一の間一の間床と襖には青と白の和紙が市松模様に貼り合わされ,斬新な意匠となっている。

小高い岡の上に立っている峠茶屋風の建物が賞花亭(しょうかてい)。

こちらの茶室もかやぶきの屋根になっている。
さきほどの松琴亭と比べると、いくぶんか質素な造りになっています。

小高い岡の上に立っているので、ゆったりと桂離宮を見渡すことができる場所です。

橋を渡り、園内をさらに進んでいくと、3番目の茶室に到着。

笑意軒(しょういけん)、田舎風でかやぶきのひさしをつけた間口の長い建物である。

6つの丸い下地窓は、下地の組み合わせを違えてあり格子の材質にも 木や竹を使って微妙に変化をつけてある。
天井は一つのつながりを持っており、室内を広く見せる工夫がこらしてある。 (宮内庁パンフレットより)

笑意軒前面の延段にかかる手前右手に 三角灯籠があります。
生垣の足元にあるので 帰り道の方が見つけやすいかもしれません。

雪見形の変形と言われていて 笠も火袋も中台も脚もすべて三角形の 他に例の無いものです。

火袋の窓が 丸、四角、三日月形とそれぞれ形が違っているのも面白いと写真集の説明には書かれていましたが丸形の窓は園路の反対側なので四角い窓の向こう側に僅かに見えるだけです。

園林堂(おんりんどう)、桂離宮の中でもっと高い所にあります。

園林堂は、本瓦葺き宝形造(ほうぎょうづくり)の持仏堂。

書院(しょいん)桂離宮の中心的御殿で、古書院、中書院、新御殿が雁行形に建てられ、古書院の前には月見台が造られています。

古書院の前には月見台が。

昭和8年(1933年)に来日したドイツの建築家ブルーノ・タウトは桂離宮の簡素な美を絶賛し、その知名度を国際的に高めたことで知られる。

タウトは昭和8年5月と翌昭和9年(1934年)5月に桂離宮を拝観し、その折の所感を著作に記している。

古書院の広縁から張り出した竹縁(月見台)から庭園を鑑賞したタウトは、その時の感興を「ここに繰りひろげられている美は理解を絶する美、すなわち偉大な芸術のもつ美である。

すぐれた芸術品に接するとき、涙はおのずから眼に溢れる」(篠田英雄訳)と表現した。
日光東照宮については「珍奇な骨董品」として酷評した。

月波楼「中の間」から松琴亭を望む。

月波楼(げっぱろう)観月のための茶亭で,その名のとおり池に映る月を鑑賞しました。

桂離宮は江戸時代の17世紀に皇族の八条宮の別邸として創設された建築群と庭園からなる。
面積は約7万平方メートルで、うち庭園部分は約5万8千平方メートルである[2]。

智仁親王は正親町天皇の皇孫、後陽成天皇の弟に当たる。
智仁親王は初め豊臣秀吉の猶子となったが、秀吉に実子が生まれたため、八条宮家(桂宮家)を創設したものである。

本邸は京都御所の北側、今出川通りに面して建設され、現存する(ただし築地塀と表門・勅使門だけを残し、建物群は二条城に移築されている)。

離宮とは皇居とは別に設けた宮殿の意であるが、「桂離宮」と称するのは明治16年(1883年)からで、それ以前は「桂別業」などと呼ばれていた。

建築物のうち書院は書院造を基調に数寄屋風を採り入れている。
庭園には茶屋が配されている。
現在は宮内庁京都事務所により管理されている。

寛永6年(1629年)、智仁親王が死去する。
当時、八条宮2代の智忠親王は数え年11歳で、桂別業の整備を引き継ぐにはまだ若かった。

智仁親王没後2年にしてすでに荒廃が始まっていたとみえる。

その後、智忠親王により、現在「中書院」と呼ばれている建物が整備されたのは寛永18年(1641年)頃と推定されている。

この建物には狩野探幽・尚信・安信の3兄弟が障壁画を描いているが、この3人が京都にいたのが寛永18年であることがその主な根拠である。

翌寛永19年(1642年)、智忠親王は前田利常女の富姫を娶るが、このことも別業整備の契機になっていたとみられる。

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桂離宮へのアクセス、行き方歩き方

阪急京都線 桂駅から 徒歩20分
市バス 桂離宮前から 徒歩8分

予約方法
事前予約制
往復はがき又はホームページから申し込み。宮内庁京都事務所参観係の窓口でも申し込めますが、定員になり次第締め切ります。詳細については、電話にて問合せ下さい。

問合せ・申込先
宮内庁京都事務所参観係
電話075-211-1215
宮内庁 参観サイト