天竜川と二俣川に挟まれた天嶮に恵まれた中世城郭として名高く、武田信玄・勝頼親子と徳川家康がこの城を巡って激しい攻防を繰り広げた。
また、家康の嫡男信康が悲劇の切腹をとげた城としても知られる。
北にある信濃側から見れば山間部から遠州平野への入り口といえる場所に位置し、南の道を気賀まで抜ければ、東海道の脇街道である姫街道が東西に走り、そこからさらに下れば浜名湖の東側(現在の浜松市中心部)に出るなど、街道上の要衝といえる位置にあった。
二俣城公園への入り口(本丸北門への道)
本丸跡、前方は天守台。
天守台には石垣が使われており、他の土塁部分にも上部などに石垣が使われていた形跡が残っている。
天守台の築造時期については、大久保忠世が武田勢と対峙していた天正3年から10年ころまでと想定され、家康による浜松城の改修と時期を同じにすることもあり共通した部分が多く見られる。
石垣は野面積み、天守の隅石には当時の先端の積み方である算木積みが用いられている。
石には当地で掘り出される石灰岩が使用されており、石の加工が容易なこともあり浜松城の石垣より丁寧に加工されている。
天守台上、林の隙間から天竜川を望む。
二の丸から本丸を望む。
二の丸と大手門跡。
二の丸と蔵屋敷を隔てる空堀、かなり規模が大きく、台地下まで一直線である。
この下は天竜川に臨む断崖である。
蔵屋敷のようす。
蔵屋敷の先端の土塁には、このように石垣があった。
ここに限らず、この城はあちこちに石垣を用いている。
大分崩れてしまっている部分も多いが・・・・・。
二の丸東方にある大手門は高く石垣が積まれており隅石もよくわかります。
その脇から二の丸南側をぐるりと弧を描くようにしてつくられている土塁も見事です。
俣町のマンホール、デザインは、旧天竜市の花=ヤマユリ と 旧天竜市の鳥=セキレイ らしい・・・。
そして、天竜の豊な森林。
二俣城の戦いから三方ヶ原の戦いへと自体は一気に進む、そして信玄の死、武田の滅亡へと続く経過をウィキの記述により紹介。
二俣城の戦い
元亀3年(1572年)10月3日、上洛を目指す武田信玄は、徳川家康の所領である遠江に侵攻した。
信玄は遠江における徳川方の諸城を東西に分断するため、10月13日には腹心の馬場信春に一軍を預けて只来城を落とさせた。
自らも2万2000の軍勢を率いて天方城・一宮城・飯田城・格和城・向笠城などをわずか1日で全て落とした。
10月15日には、匂坂城を攻略した。これにより、掛川城や高天神城は孤立し、家康方は浜松城にある城兵だけで武田軍と戦うことを余儀なくされたのである。
その結果、10月14日に行われた一言坂の戦いで、家康は信玄の前に大敗を喫した。
一方、家康を破った信玄は、10月16日に二俣城を包囲した。
二俣城は浜松城と掛川・高天神城のちょうど中間地点に位置する遠江の諸城の中でも特に重要な拠点であった。
武田軍が補給路を確保するためにも、徳川軍の連絡網を断ち切るためにも、この城は落としておく必要があったのである。
二俣城攻略は、武田氏と徳川氏の優劣を決定的なものとした。
これにより、日和見を決め込んでいた飯尾氏・神尾氏・奥山氏・天野氏・貫名氏などの地侍のほとんどが信玄に従うことを表明したからである。
これにより信玄の次の標的は、家康の居城・浜松城となり、12月22日の三方ヶ原の戦いへと突入していくことになる。
三方ヶ原における合戦の経緯
当初、徳川家康と佐久間信盛は、武田軍の次の狙いは本城・浜松城であると考え、籠城戦に備えていた。
一方の武田軍は、二俣城攻略から3日後の12月22日に二俣城を発すると、遠州平野内を西進する。
浜名湖に突き出た庄内半島の先端に位置する堀江城(現在の浜松市西区舘山寺町)を標的とするような進軍であり、浜松城を素通りして三方ヶ原台地を通過しようとしていた。
これを知った家康は、一部家臣の反対を押し切って、籠城策を三方ヶ原から祝田の坂を下る武田軍を背後から襲う積極攻撃策に変更し、浜松城から追撃に出た。
同日夕刻には、三方ヶ原台地に到着するが、武田軍は魚鱗の陣を布いて待ち構えており、徳川軍は鶴翼の陣をとって戦闘が始まる。
しかし、武田軍に対し兵力・戦術面ともに劣る徳川軍に勝ち目はなく、わずか2時間の戦闘で甚大な被害を受けて敗走する。
武田軍の死傷者200人に対し、徳川軍は死傷者2,000人のほか、鳥居四郎左衛門、成瀬藤蔵、本多忠真といった有力な家臣を始め、先の二俣城の戦いでの恥辱を晴らそうとした中根正照、青木貞治や、家康の身代わりとなった夏目吉信、鈴木久三郎といった家臣、また織田軍の平手汎秀といった武将を失った。
このように野戦に持ち込んだことを含めて、全て武田軍の狙い通りに進んだと言えるが、戦闘開始時刻が遅かったこともあり家康を討ち取ることはできなかった。
家康が出陣した理由
通説では、信玄の挑発(相手にされず素通りされたこと)に乗ったとされているが、様々な説がある。
あえてここで出撃することによって家臣や国人衆たちの信頼を得る(ここで武田軍が去るのをただ待つだけでは調略に乗る者や離反者が出る可能性があった)、織田氏・武田氏のどちらが勝つにせよ戦役終了後に徳川氏に有利になるよう戦略的アピールを狙ったなどがあるが、祝田の坂を利用し一撃離脱を図っていたという説や、挑発に乗った振りをして浜松城近辺に武田軍を足止めするための時間稼ぎを狙っていた(染谷光広、吉川弘文館『日本歴史』360号「武田信玄の西上作戦小考」)と言った戦術的面から見た説もある。
また、『当代記』『四戦紀聞』などの史料によれば、家康は戦うつもりが無かったが、物見に出ていた部下が小競り合いを始めてしまい、彼らを城に戻そうとしている内に戦闘に巻き込まれてしまった、という旨の記述がある。
一応、それらを含めて信玄が家康を出陣せざるを得ない状況に追い込んだとも言えないことはない。
合戦後
ほぼ兵力を温存した状態の武田軍は遠江国で越年した後、東三河へ侵攻。
1ヶ月かけて徳川軍にとって東三河防衛の要所である野田城を攻略する(野田城の戦い)。
だが間もなく信玄の病状悪化に伴い、武田軍は西上作戦を切り上げて甲斐国への撤退を決断し、帰路の元亀4年4月12日に信玄は病死する。
徳川氏にとっての存亡の危機、織田氏にとっての全面対決の危機は、結果として信玄の病死によって回避された。
その後、武田氏では武田勝頼が家督を継ぐ。
その際の間隙を突いて武田軍の撤退から半年も経たない8月には家康は長篠城を取り戻すことに成功した上に、奥平貞能・貞昌親子の調略も成功させている。
これらは後の長篠の戦いで大きな意味を持つことになる。
信長は反信長勢力を打破し三河・遠江では家康が反攻を強めた。
一方で天正年間に勝頼は小笠原長忠が篭る高天神城を落とすなど遠江の再掌握を開始することに成功。
しかし天正3年の長篠の戦いでは織田・徳川連合軍に大敗し、領国は動揺。
最後は信玄の死から10年を経たずに甲州征伐により武田家は滅亡へと追い込まれた。
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二俣城へのアクセス、行き方歩き方
住所:静岡県浜松市天竜区二俣町二俣
JR東海道本線、掛川駅、または新所原駅で天竜浜名湖鉄道に乗り換え、二俣本町駅下車、徒歩8分